しかし、俺は、どうすればいいんだ?
この雰囲気は長期騒音の雰囲気だ。これ、だれにもわからないことなんだよな。これが、どれだけ、俺の生命力をうばい、どれだけ、俺の人生を破壊したか。
きちがい兄貴が、やっちゃいけないことをやっている。
けど、「やっちゃいけないことだ」ということを、きちがい兄貴が、きちがい親父の態度で、認めないのだ。
きちがい兄貴だって、きちがい親父に理不尽なことをされていたとき、怒ったくせに。きちがい兄貴が怒ったということね。きちがい兄貴が怒ったのは、きちがい親父がやっていることが「おかしい」と思ったからだ。「理不尽だ」と思ったからだ。
ところが、自分のヘビメタになると、きちがい親父とまったくおなじ態度になる。きちがいおやじと同じ感覚になる。きちがい親父と同じ感覚になって、まったく気にしないでやり通す。
この、やり通すときの、やり方や感覚がおかしいのだ。
けど、そんなの、ほかの人は、まったくわからない。
ぼくがどれだけ説明したって、ほかの人はわからない。だって、実物が、うちのなかにいないのだから。「うちのなか」というのが、重要なんだけど、それだって、どれだけ言ったって、わからない。
ほかの人たちはほかの人たちで、その重要さがわからないのだ。それに、ほかの人たちにとって、ぼくの「うちでの」ヘビメタ騒音という悩みは、どうでもいいことだ。
ヘビメタ騒音で勉強ができない……ほかの人たちにとってそれがなんだというのだ。そんなのは、騒音のなかでやればいいということになる。そういうふうに、ほかの人たちは別にこまることではないのだ。
なので、ぼくと、ほかの人たちは、感じ方がちがう。
きちがい兄貴がいない人にとってみれば、きちがい兄貴のやることなんて、関係がない。きちがい兄貴がいないのだから、最初からゼロだ。最初からゼロである人が、最初から、最大である人に、「普通のことを」言う。
普通のことは、普通の家で成り立っていることだ。
その普通のことを基準にして、ぼくの「うち」に発生していることについて言及するというわけだ。これは、最初から、まちがっている。ぼくのうちのことなんて、わかるやつがいないのだ。
ぼくのうちの基準なんてわかるやつがいないのだ。
ぼくのうちの基準というのは、きちがいがやりとおしていいという基準だ。きちがいがやりとおすから、そうなる。
きちがいがやり通して、やったことを認めないからそうなる。けど、これは、きちがい家族がいるからそうなっているだけだ。きちがい家族がいないほかのうちでは、そんなのは、一日に一秒も成り立たない。
そういうところで住んでいる人が、俺の話を聴いて、それで意見を言うわけだから、もちろん、意見の根本は、そういう人が住んでいないところでなりたっている意見の根本だ。
ようするに、意見の根本に、普通の家族との暮らしが成り立っているのである。普通の家族と暮らしているということは、普通の家族がもたらす、見えない基準があるということだ。
この基準は、透明だけど、すべての行為について成り立っているのだ。
うちの見えない基準と、よそのうちの見えない基準がちがうのだ。
だから言うことがちがってくる。
だから、よその人はうちの基準を理解しないまま、自分のうちの基準を当てはめて、ぼくに意見を言ってくるということになるのである。
たとえば、仮面うつ病の人が、「朝、死ぬほどつらい」と言ったとしよう。で、ぼくが「朝、死ぬほどつらい」と言ったとしよう。「朝、死ぬほどつらい」という言葉はおなじだ。
だから、どっちが、より、つらいのかわからない。 「朝、死ぬほどつらい」という言葉がおなじなのだから、おなじぐらいのつらさなのだろうと、第三者は思ってしまう。
けど、仮面うつ病の人は、旅行に行くときは、るんるんで楽しい気分をあじわえるのである。
朝、会社に行くときは、「死ぬほどつらい」と感じるけど、朝、旅行に行くときは、楽しくて楽しくてしかたがないのだ。
けど、ヘビメタ騒音三〇日ならともかく、ヘビメタ騒音一〇〇〇日をこえると、仮面うつ病の人が言っているような「朝のつらさ」ではなくなる。ぜーぜん、ちがう。
だれだって、きちがい家族に、ああいう態度で五〇〇〇日にわたって、自分の嫌いな音を鳴らされ続けたら、俺とおなじ状態になるのに!それが若手っないのである。
けど、本人は「つらい思いをした」のだから「俺だってつらい思いをした」と言えるし、「俺だって朝はつらい」のだから、「朝はつらい」ということができる。
けど、ちがうんだよね。
旅行の場合とおなじように、まず、いま通っているのだから(いま、通勤することができているのだから)ちがう。程度がちがうのだ。
あれだけ、自分がきらいな音を聞かされ続けたら、だれだって働けなくなるのに、「人間は働くべきだ」「俺だってつらい」ということを言われる立場に追い込まれてしまうのである。