こいつらには、きちがい兄貴も、きちがい親父もいない。ぜんぜんちがう。こいつらは、きちがい兄貴と一緒に住んだ期間がない。こいつらは、きちがい親父と一緒に暮らした期間がない。
ぜんぜんちがう。ぜんぜんちがう。
なんで「俺だって苦労をした」というひとことで、きちがい家族から発生する苦労を経験したことがないやつが、「同等の苦労したけど、働いている」ということになるのだ?
あるいは、「同等の苦労をしたけど、それでも、明るく生きている」ということになるのだ。同等の苦労をしてないじゃないか。
おまえらには、きちがい家族と一緒に暮らした期間がないじゃないか。
きちがい家族と暮らした数千日、数万日がないじゃないか。
同等の苦労であるはずがない。一秒も、きちがい家族と暮らしたことがないやつが、きちがい家族のことについて正確に想像できるわけがない。正確に理解できるわけがない。こいつらの頭のなかには、こいつらのイメージするきちがい家族しかない。
そして、それは、『人の話を聴いて』頭にこしらえたものだ。
実際に、きちがい家族といっしょに生活しているわけではない。
なら、影響はうけない。きちがい家族と一緒に暮らしていないのだから、きちがい家族の影響をうけない。なので、きちがい家族の影響は、無視できるのである。
それだけ。それだけなのに、えらそうにはっぱをかける。
そして、自分が老化したら、老化を原因にして、働くのをやめてしまうのである。
「老化なんてあまえ」「老化したと言うから、老化するんだ」「老化しないと言えば、老化しない」「すべては、受け止め方の問題だから、老化したと受け止めなければいい」。「老化なんて気のせい」「自分で老化したと思っているから、だめなんだ」「できると言えば、どれだけ老化していてもできる」。「自分が老化したという現実を自分でつくっている。つくらなければいい」。「老化を引き寄せちゃうからダメなんだ。老化を引き寄せなければいい」。