「人は働かなければならない」「人は働くべきだ」という言い方も、じつは、『条件』を無視したものになっている。
「人は働かなければならない」という文の意味は、「どんな場合でも、人は働かなければならない」という文の意味を含んでいる。「どんな条件でも、人は働くべきだ」という文の意味は「人は働くべきだ」という文の意味を含んでいる。
特に、「どんな条件でも」という言葉を付け加えなくても、「人は働くべきだ」と言ったら、「どんな条件でも、人は働くべきだ」という意味を「かならず」含んでいるのである。
ところが、それは、人に言う場合で、人の現実を無視できる場合に限られるのである。自分が老化した、「老化した場合は、人は働かなくてもいい」ということになってしまうのである。「老化した場合」という条件を無視するなら、「人は働かなくてもいい」と言っているのである。
なので、「人は働くべきだ」と言っておいて「人は働かなくてもいい」と言っているのだから、矛盾している。自分の場合は、『条件』について理解しているので、ごく自然に、「人は働くべきだ」と他人にえらそうに言っていたことを、忘れてしまう。
そして、忘れてしまうだけではなくて、「老化した場合は、人は働かなくてもいい」と言ったあとも、「人は働くべきだ」という考え方を自分のなかに保持しているのである。ようするに、その人にとって「老化した場合は、人は働かなくてもいい」という文と「人は働くべきだ」という文は、矛盾したものではないのだ。
これは、かくされた『条件』について、考えないから、そうなる。かくされた『条件』について思考しないからそうなる。だから、矛盾しているということに気がついてない。
途中から、「人は働かなければならない」という文に関しての説明ははぶいたけど、「人は働くべきだ」という文とおなじことが成り立っている。まあ、当然か。
人の悪条件を軽く無視できるやつが「人は働くべきだ」と言っているにすぎない。そして、自分が老化したら、「自分は働かなくてもいい」ということになってしまう。自分の場合については、悪条件について、思考をめぐらすのである。
人の『悪条件』を軽く無視できるやつは、「そんなのはいいわけだ」という言い方を用意して持っている。人がなにかを言ったら「そんなのはいいわけだ」と言いかえすのである。人が、「老化したから、働けない」と言ったら、「そんなのはいいわけだ」と言いかえすのである。
けど、それは、他人事だからそうなる。自分のことだと、「自分は老化したのだから、働かなくてもいい」「働くべきではない」ということになってしまうのである。そういう思考の流れが、普通に成り立ってしまうのである。
が、「老化したから、働けない」と言ったら、「そんなのはいいわけだ」と言いかえすとき、「その人」は働いている場合が多い。自分が働けなくなったら、途端に、いいわけをして、働かなくなるのである。
「人は働くべきだ」と言っていた自分が、働かなくなっても、「自分の場合なら」いいのだ。自分は、自分の悪条件を自然に、無理なく、理解している。悪条件を考えれば、働かなくてもいいのだ。「人は働くべきだ」というのは、悪条件について考えない場合に限られるのである。
しかし、「人は働くべきだ」という文の意味は、「どんな条件でも、人は働くべきだ」という文の意味を含んでいるのである。
ようするに、自分の場合と、他人の場合を使いわけている。他人に言っている場合は「どんな条件でも、人は働くべきだから、おまえ(目の前の他人)も働くべきだ」ということを言っているのである。自分に関しては、「どんな条件でも人は働くべきだとは言えない」と考えているのである。
こういう、自分勝手なやつが、どれだけ多いか!
人にはえらそうなことを言って、自分のこととなると、自分が言っていたことを、忘れてしまう。他人の場合は、どんな悪条件でも働くべきなのに、自分の場合は、悪条件のもとでは働かなくてもいいということになってしまうのである。
そして、立場の悪い相手に対して、マウントをして、悦に浸るのである。「俺、いいこと言った」「俺、正しいことを言った」「俺は、適切な助言をした」と思うのである。