そいつのなかで「差」を撲滅したら、「差」はないことになってしまうのである。あるとした、「能力の差」や「努力の差だ」ということになる。ようするに、「環境の差」をないことにして、「自分だったらできる」というようなことを言って、相手をおいつめるのである。「自分だったらできる」というのは、仮定の話だ。現実の話じゃない。
ぼくがずっと説明していることは、「環境の差」を認めるのかどうかということなのである。「過去は関係がない」「すべては受け止め方の問題だ」「言霊は正しい」と言っている人たちは、「環境の差」で「下の下」の人を、追いつめるようなことを言う。無理難題を言う。AさんとBさんがいて、Aさんが、環境の差、下の下だとする。Bさんは、環境の差、中の中だとする。下の下と、中の中では、ものすごい差があるんだよ。
家族がきちがいかどうかということも、環境の差だ。生まれた家の格差だ。この格差を無視するようなことは、あってはならない。ところが、環境の差を無視して、無理難題を「ふっかける」ことが、正義になってしまっている。どうしてかというと、ピラミッド社会(格差のヒエラルキー)と自分を中心とした比較優位・比較劣位が成り立っているからだ。