ほんとうに、悲惨な人生だったなぁ。むりなんだよ。ヘビメタ騒音にたたられて、人から誤解されて、軽く扱われたりバカにされたりするのに、しあわせを感じるなんていうのはむりだ。
きちがい家族によるきちがいヘビメタ騒音と、世間の常識の、相性が、悪すぎる。ここだけ、俺だけ、落ち込むということになる。
これ、やられてない人は軽く考えるけど、ちがうんだよ。
それに、ヘビメタ騒音が鳴っているところで、浪人したら浪人したで、いろいろと問題が発生する。きちがいヘビメタが、一一歳のときから始まったというのが問題だ。
俺が一一歳のときにはじまったというのが問題だ。
中学・高校と、大事な期間をまるごと含んでいる。これのおおきさはちょっと言いようがない。
どうしたって、人生に後悔が残るだろ。
きちがいヘビメタに毎日たたられていいはずがない。きちがいヘビメタ騒音の一日というのは、名前だけ店長さんが自殺する一日まえとおなじなんだよ。自殺寸前で暮らしているわけ。
それは、ぼくが、希望をもっていたからなんだけど、その希望というのが、ヘビメタ騒音がなければ簡単にかなう希望なんだよ。ところが、ヘビメタ騒音が鳴っていると、絶対にかなわない希望になってしまう。
そして、希望というのは、ようするに、不安の裏返しだ。きちがいヘビメタが鳴っているのだからそうなる。ヘビメタ騒音が鳴っているわけだから、希望を持つと、不安がでかくなる。どうしてもその希望をかなえたいのに、きちがいヘビメタでどうしても希望をかなえるための努力ができないのである。
不安になるに決まっている。鳴っているあいだ、胃腸が切れそうな不安感じるに決まっている。よる、きちがいヘビメタで眠れないとき、不安になるに決まっている。
「このままでは、希望がかなわない」という予想がつく。どれだ否定したって鳴っている以上、自分のすすみぐあいがわかる。破滅的なすすみぐあいだ。
自殺一日まえの名前だけ店長が「笑っていれば、いいことあるよ」と言われたって、いい気持にはならないだろ。まえの投稿でも言ったけど、「わくぐみ」が問題なんだよ。
いまの状況が続いてしまう……そういうわくぐみがある。働くなら、いまの状況が続いてしまう。その枠組みが問題だから、くるしいと言っているわけなのに、「わらっていれば、いいことあるよ」と言われたって、いい気持にはならない。
どうしてかというと、わらったって、わくぐみがあるかぎり、いいことなんてないからだ。まったくまったく、いいことなんてないからだ。かたく、かたく、とざされているのである。
それを「感じ方をかえましょう」「受け止め方をかえましょう」と言われたって、しかたがない。かわらなければならないのは、わくぐみのほうなのである。店長ががんじがらめにされたわくぐみというのは、店長としての仕事であるわけだけど、ぼくががんじがらめにされた枠組みというのは、ヘビメタ騒音が鳴っているわくぐみだ。
そして、他人は他人だから、くるしさがわからないのである。
けど、わかったつもりになって、「わらっていれば、いいことあるよ」「感じ方をかえましょう」「受け止め方をかえましょう」と言うのだ。
何回だって言ってやるけど、わくぐみが、そのわくぐみとして成り立っている限り、わらったっていいことなんてないし、感じ方をかえることができないし、受け止め方をかえることはできない。
実際にはできないことを、あたかも簡単にできるように言うのは、よくない。これ、「感じ方をかえましょう」「受け止め方をかえましょう」と言っている人だって、できないことなのである。自分が実際にやられてないので、そう言えるだけだ。
自分が実際にそのわくぐみみのなかにいるわけではないから、「感じ方をかえられる」「受け止め方をかえられる」という気分になって、そういうふうに言っているだけだ。これ、(今まで自分が言ってきたことと矛盾しているように思えるかもしれないけど)人間なら、だれだって、できない。
実際に店長の立場になって店長とおなじことを一五年間続けていれば、感じ方なんてかえられないし、受け止め方もかえられない。
関係がない人だからだ。他人として、想像しただけだからだ。
あるいは、そういう想像しかできない自己中心的な感じ方がある人だからだ。
自己中心的な感じ方をかえたほうがいいんじゃないか。