普通の人がわからないのは、鳴っているときのからだの状態でもあるわけだけど、鳴り終わったあとのからだの状態もわからない。なので、言っていることがずれてしまうのである。これどれだ、ぼくが正確に記述しても、「体験」がない人にはわからない。そして、かなり特殊な家族によってもたらされたことなので、ほかの人には、わからない。どうしてかというと、ほかの人には、「その特殊な家族」がいないからだ。特殊な家族と一緒に暮らしたことがない人は、特殊な家族が、どういう感覚で、どういう態度で、きちがい行為をやるのかわからない。そして、きちがい行為に関する、特殊な家族側の「記憶」が、普通の人が考えているような「記憶」ではないのである。こういうこともわからない。実際に、「経験」がないのだから、そんなのはまったく、関係がない話だ。だから、基本的に僕が言っていることがわからないのである。
たとえば、鬱とか、つかれというものも、ほんとうは、わからない。ぼくが、ヘビメタ騒音によって経験した「打つ」とか「つかれ」というものが、ほかの人にはまったくわからない。そして、ほかの人たちというのは、共同幻想にしたがって生活しているのだけど、その共同幻想にしたがうと、「無職」や「引きこもり」といったものに関する偏見が生まれてしまう。その偏見は強固なものであって、一生続くものだ。修正の必要性は、一生涯のあいだか信じることができないものなのである。なので、普通に、ぼくのことをばかにしてくるということになる。しかし、この「無職」や「ひきこもり」という属性は、きちがいヘビメタ騒音によって、発生したものなのである。これ、きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、ぼくがそういう属性を獲得してしまうということはなかった。で、この属性の獲得なのだけど不可避」なのだ。やられたら、不可避なのだ。あの態度で、あの時間の長さやられた不可避なのだ。あの期間の長さやられたら、不可避なのだ。けど、やられたことがないほかの人にとっては、「不可避である」ということがわからないのだ。なので、ぼくに対して「まちがった」態度をとるようになるのである。
たとえば、一番強い言霊信者というものかを考えたとする。その強い言霊信者が、ヘビメタ騒音のなかで「だいじょうぶだ。だいじょうぶだ」と言ったとしても、だいじょうぶじゃないのである。長く続けは、しんどくなるのである。 こいつらは、たとえば、朝の状態と、夜のヘビメタが関係がないと思っているのである。けど、関係がある。これに関しても、「うこげるうごける」とどれだけ言っても、動けない日がくる。そういうときがくる。何年間も毎日、自分が、この世で、一番嫌いな音をずっと、鳴らされ続ければそうなるのである。ところが、そういうことを、言霊主義者は無視してしまう。
経験のない人にとっては、「ヘビメタ騒音」はそういうものでしかないのである。あるいは、経験がない人にとっては、「ヘビメタ騒音の話」はそういうものでしかないのである。しかし、こっちには、鳴っていた時間がある。そして、眠れなかった時間がある。そして、眠れなかったのに起きて、無理やり動いていた時間がある。この無理やり動いていた時間が「鬱」をつくりだすのに、そういうことがわかってないやつが、「鳴っていなければ関係がない」と言うのである。
ずっと語ってきたけど、言霊理論は、妄想的な理論なのである。妄想を語るな。こっちは、現実の事実について語っているんだ。現実の出来事について語っているんだ。ずれた話を持ち出しているということに、いいかげん、気がつけ。