もし、ヘビメタ騒音相当の騒音が人生のなかであった人なら、ぼくの言うことに賛成するのである。「ヘビメタ騒音で、通勤できなくなった」「ヘビメタ騒音で、通学できなくなった」「ヘビメタ騒音で、週三回のアルバイトですらできなくなった」……賛成してくれる。「そうだよな」と言ってくれる。「そのとおりだ」と言ってくれる。ところが、ヘビメタ騒音相当の騒音がなかったやつが「俺だって、騒音ぐらいあった」と言って、「通勤は可能だ」と言うのだ。こんなのは、嘘だ。そうでなければ、頭がおかしい。たとえは、通勤している人が、「俺だって苦労した」と言うけど、だから俺(エイリ)が、通勤できるかというとそうではないのだ。「騒音があった」「苦労した」……けど、普通に通勤できるからだだ。通勤できるので、できない俺(エイリ)に対して、通勤できると言うのだ。けど、その人たちが言う、苦労とか、騒音というのは、ヘビメタ騒音相当の騒音ではないし、ヘビメタ騒音相当の苦労ではないのだ。だって、できるわけだからさ。人間なら、だれでもできなくなる。それが、きちがい家族による、きちがい騒音だ。しつこいしつこい、騒音だ。ほんとうに、気持ちが破壊されるのである。睡眠回路が破壊されるのである。生活体力が破壊されるのである。どれだけ、しんぼうして、たえたとしても、そうなる。そうなることはきまっている。人間のからだを使っているならそうなる。ところが、きちがい家族がいないやつが、「俺だって、騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」と言うのだ。そいつは、きちがい家族と一緒に暮らしたことがないのである。そして、今現在、げんに、通勤しているのである。仕事をしているのである。それ自体が、通勤できなくなるような苦労じゃなかったというとの証明だ。それ自体が、仕事をすることができくなるような騒音じゃなかったということの証明だ。
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「そんなのは、気の持ちようだ」「そんなのは、受け止め方の問題だ」「元気だ元気だと言えば元気になる」……。こんなことを言うやつらが、経験した苦労というのはなんだ? きちがいヘビメタ騒音相当の苦労を経験したら、絶対にそんなことは、「くちがさけても」言わない。言えない。「ちがう」ということがわかるからだ。「そんなんじゃない」というとがわかるからだ。ほんとうに、ちがうのである。そんなたてまえが成り立つような状態じゃないのだ。そんなたてまえは、どれだけたもとうとしても、一年間でふっとぶ。そんなことが言えない状態になる。これがわかってないのだから、わかってない。これがからだでわかってないということは、そういう経験がなかったというとを意味しているのだ。ぜんぜんちがう。
そういうことを信じていられるということが、ヘビメタ騒音相当の苦労じゃないということだ。そういうことを信じていられるというとが、そういうことを信じていられるような苦労でしかないということを、物語っている。証明している。明示している。だれでも、人間なら、そんなことは言ってられない状態になる。そういう状態がわかってないということが、わかる。「そんなのは、気の持ちようだ」「そんなのは、受け止め方の問題だ」「元気だ元気だと言えば元気になる」……こんなことが言えない状態になる。これ……こういう言葉……は、まちがっているということが、わかる。これ……こういう言葉……は、嘘だということが、否応なくわかる。やられ続けて、気がつかないなんてことはないんだよ。気がつかないなら、それは、それだけのものだ。ちがうのである。ぜんぜん、ちがう。うぬぼれているからそう思っているだけだろ。あるいは、他人の状態に対する理解力がかけているからそういうふうに思っただけだろ。ちがうのである。ぜんぜーーん、ちがう。ちがうと言ったら、ちがう。