しかし、俺の人生はいったいなんなんだ。いま、午後一〇時〇七分。この時間もきちがいヘビメタが鳴っていた。次の日、影響をうける。だいたい、
ヘビメタ騒音のことを「言う」にしろ「言わない」にしろ、ヘビメタ騒音の影響をうけた体で、ほかの人の行動に対処しているわけだから、当然、ヘビメタ騒音の影響はある。ぼくの受け答えに、前の日や、その前日や、数十日まえから、たたっているつかれが影響をあたえる。ほかの人の行動に対する、ぼくの判断、ぼくの感じ方、ぼくの行動に影響与える。全部、悪影響だ。いい影響なんてない。ヘビメタ騒音のことを言うにしろ、言わないにしろ、ほかの人との関係にヘビメタ騒音が、深い深い深い、影響をあたえている。ぼくの人生は、当いう人生だった。
全部が全部、ヘビメタ騒音だった。これは、行動だけではなくて……履歴や属性に影響をあたえる。けっきょく、ヘビメタ騒音が鳴りはじめてから、ずっとずっと、すべてのことに、ヘビメタ騒音は影響がある。そりゃ、ヘビメタ騒音でぼくが無職だということを言うにしろ、言わないにしろ、無職だということを伝えたら、それは、相手のぼくに対する判断や、ぼくに対する行動に影響をあたえる。ぼくに対する行動のなかには、ぼくに対する発言も含まれるとする。一般社会において、無職に対する偏見が成り立っているのであれば、当然、多くの人が、ぼくのことを偏見の目で見るということになる。影響をあたえているではないか。普通の人は、きちがい兄貴と一緒に住んでいないので、きちがい兄貴が鳴らした騒音の影響がない。きちがい兄貴が鳴らした騒音の影響をうけてない人生を歩んでいる。なので、ヘビメタ騒音のひどさがわからないし、「ヘビメタ騒音の影響」のでかさがわからない。どうしたって、その人が経験した「普通の騒音」でものを考えてしまう。影響のでかさも、当然、その人が経験した騒音をもとにして考えた影響のでかさになる。そうなると、ぜんぜんちがうものについて考えているということになる。「騒音」という文字はおなじだけど、ぜんぜんちがうのだ、きちがい兄貴のヘビメタ騒音は「異質な騒音」「別次元の騒音」なのだ。それは、きちがい兄貴の性格や、きちがい兄貴の感覚が影響した騒音になるから、きちがいが出している騒音だということになる。
まあ、トートロジーだけど、騒音の出し方がきちがいだから、きちがい兄貴と言っているわけだ。きちがいということにしておかないと、普通の言葉では、説明することができないのだ。そういう部分を内包している。
だから、ほかの人には、よけいにわからない。音のでかさや音の持続時間、そして、きちがい兄貴の感じ方というのは、きちがい兄貴の騒音を身にあびてきた人しか、わからない。
ともかく、きちがい兄貴の脳みそが、ほかの人とはちがうのである。脳みその構造がちがうのである。
だから、騒音をだしているときの態度も、騒音をだしおわったときの態度も、普通の人が想像できないものになる。普通の人のまわりには、きちがい兄貴とはちがう脳みその構造をもっている人がだしている騒音しかない。
よその人は、経験してないから、きちがい兄貴によるヘビメタ騒音がどういう影響をあたえるか、ぜんぜんわかってない。わかってないところで、「たいしたことはないだろう」と思って、「エイリさんがさぼっている」「エイリさんが甘えている」「人間は働くべきだ」というようなことを言う。そういうことを言われること自体が、屈辱だ。
「ヘビメタ騒音なんて関係がない」と言われて、「怒りの感情」がしょうじないとでも思っているのか? きちがいヘビメタ騒音、数千日の怒りが、いっきに、そいつの顔に集中するよ。がまんして生きているんだぞ。がまんして……。
きちがい兄貴がやってきたことに対する怒りやきちがい兄貴の態度に対する怒りなのだけど、そういったものが、一気に爆発しそうになる。どうしてかというと、常に、たえて生きてきたからだ。常に、きちがい兄貴やられて生きてきたからだ。
やっているほうは、まったくやってないつもりなんだよ。きちがい兄貴の意識というのは、実際に、一日に一秒もヘビメタを鳴らさなかったときの意識とおなじだ。何千日も、何万日も、もめているのに、そういう意識しかない。まさしく、くるっている。
殺すわけにいかなかったから、ずっと、そうなってしまった。
ところが、殺さなかったということを、他人はほめずに、だめになった俺に、ダメダシをするのだ。こんなことがゆるされていいと思っているのか? ゆるされるべきではない。
きちがい兄貴ときちがい親父が『うちでだけくるっている』タイプなので、ほかの人にはわかりにくい。それは、くるっているということがわからないということだけではなくて、狂っていることによって押しだされるものが、わからないのである。それは、行為であり、出来事だ。実際の出来事が、人間の感情に影響をあたえないわけがないだろ。
みんな、きちがい兄貴が十数年間にわたって、なにをしてきたかということを問題にせず、俺が無職なら、無職だということを問題にする。不可避的に無職にならざるをえない理由があるのに、それは無視する。きちがいヘビメタ騒音は、 不可避的に無職にならざるをえない理由ではないのだ……。その人たちにとっては……。これも、むかつく。うらみがしょうじないわけがない。これは、侮辱だ。ゆるせない。
こいつらのことを、俺が一〇〇万回なぐって、こいつらが無職になったとしよう。俺がなぐったという行為と、こいつらが無職になったという結果にはなにも、関係がないというのか? 因果関係がないというのか? ふざけるな。こいつらは、そのくらいに、ふざけたことを言っている。どうして、そういう「感じがしない」かというと、きちがいヘビメタ騒音が鳴っていた毎日をすごしてないからだ。どれだけ影響をうけるか、わかってないからだ。こういうやつらのことを、ぼくがゆるせるのか? ゆるせるわけがないだろ。