くそ凡人が、「ヘビメタ騒音を七年間やられたら、働けなくなる」「ヘビメタ騒音を七年間やられたら、通勤通学できなくなる」「ヘビメタ騒音を七年間やられたら、睡眠回路がこわれる」ということを認めないで、働けるという前提でものを言ってくるのである。ヘビメタが好きな人は、そもそも、「騒音」とは感じないだろうから、ヘビメタ騒音というのを「自分がこの世で一番嫌いな音」に置き換えて、考えてほしい。自分がこの世で一番嫌いな音を、あの頻度で、あの音のでかさで、あの時間の長さ、聞かされたら、働けなくなるという前提で、ものを考えてほしい。ところが、くそ凡人はみんなみんな、「自分だったら働ける」という前提でものを言ってくる。「ヘビメタ騒音は、働けなくなるような影響をあたえない」という前提でものを言ってくる。あとは、「ほんとうに、そんなにヘビメタ騒音が鳴っていたのか疑問だ」「エイリさんが嘘を言っているのかもしれない」という疑念もいだいている。これらは、きちがい兄貴がちがい兄貴だからしょうじたことだ。普通の兄貴だったらあの音で、一日に一分だって、ヘビメタを鳴らそうと思わないのだ。きちがいだからそう思って実行した。きちがいだから、「やめてくれ」といくら言われても、やめなかった。ちなみに、言霊理論が正しいなら、ぼくが、自分の部屋で「一分後にはヘビメタが鳴りやむ」と言えば、一分後には蛇田が鳴りやむはずなのである。言霊理論が正しいならそうなるはずなのである。ところが、そうならなかった。だから、言霊理論は正しくない。「言ったことが現実化する」という意味での言霊理論は、正しくないのである。ところが、「言ったことが現実化する」「これはシンプルだから正しい」と思ってしまうのである。言霊的解決方法は、ヘビメタ騒音問題に関して有効ではなかった解決方法なのである。そのとき、言霊理論が正しくないということは、証明されてしまっているのである。
言霊の話になってしまったけど、話をもとにもどす。「自分だったら働ける」という前提や「ヘビメタ騒音は、働けなくなるような影響をあたえない」という前提は、言語化されることもあるしされないこともある。問題なのは、言語化されない場合だ。それらの前提をもとにした、意見と言うのがある。前提として成り立っているということを本人が意識してない場合は、前提として成り立っているということについて語らずに、その人が思った結論だけを言う場合がある。その場合、やっかいなことになるのである。語られてない前提について、こちらが語らなければならなくなる。そして、こういう前提で、自分の意見(結論)を言っているということを指摘しなければならなくなるのである。さらに、その前提がまちがっているということを説明しなければならなくなるのである。ところが、前提として考えていることは、その人にとって、「絶対に正しい」ことなので、前提自体がまちがっているということを、なかなか認めない。
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それは、たいへんなことだったな。それじゃあ、働けなくなるよな」と言ってくれれば、それですむのに、「人間は働くべきだ」「無理だというから無理なんだ」「できると言えばできる」と言ってくるのである。世間の普通の人はそういうふうに言ってくるのである。一見働けそうに見える若者が、働けないというとそういうふうに言ってくるのである。だれでもが納得できる理由……であれば、そういうことは言ってこないかもしれないけど、「ヘビメタ騒音」という聞きなれない理由だと、その人のなかでは、「働けない理由」にならないのである。どうしてこういうことがしょうじているかというと、きちがい兄貴がきちがい兄貴だったからだ。きちがい兄貴が、きちがい的なこだわりで、きちがいヘビメタ騒音を鳴らしたからだ。きちがい兄貴がヘビメタを、自分のこだわりの音で鳴らすということに、こだわっこだわってこだわってなかったら、ぼくと普通の人とのあいだで、そういう会話が成立するということがなかった。きちがいヘビメタがなかったら、ぼくは普通に働いているので、働けないということについて、そういう問答が成り立つはずがない。あるいは、そういう問答が成り立つはずがなかった。