みんなが、実感として無視していることなのだけど、きちがいヘビメタ騒音で、つらかった。そのつらさというのが、ほんとうに、毎日毎日つみかさなるつらさなんだよ。
そして、「きちがいヘビメタが鳴ってなかったら、こんなことにはなってない」ということがつみかさなっていく毎日なんだよ。実感としてどれだけつらいのかということは、毎日、何年間も、きちがいヘビメタ騒音相当の音が続いた人じゃないとわからない。
言っておくけど、「どんなにつらくても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」というようなことを信じている人には、想像もつかないつらさだ。「どんなにつかれていて、元気だ元気だと言えば元気になる」というようことを信じている人には、想像もつかないつらさだ。毎日というのがつらいんだよ。つみかさなるわけだからさ。
けど、実際に毎日つみかさならなかった人には、わからない。
そういう人だって、たしかに、「騒音ぐらい」はある。
けど、ちがうのである。
きちがい兄貴がまず、ちがう。きちがい兄貴はきちがいだから、ああいう音で鳴らすということにまったく抵抗がなかったけど、普通の人だったら、抵抗があることなんだよ。まあ、きちがい兄貴にしても「よそ」では、ああいう音で鳴らすことには抵抗があるみたいなのである。
けど、「うち」では、ほんとうにまったく抵抗がないのである。
「やっていいことをやっている」という気持ちしかない。それが出発点だ。普通の人だったら絶対に、鳴らせない音で鳴らしている。これが、普通の人にはわからないのである。
どうしてかというと、普通の人の家族は普通の人だからだ。
もちろん、普通の人だって、テレビの騒音やステレオの騒音で家族ともめることがあるかもしれない。けど、家族が、きちがいでなければ、カタがつくのである。
ところが、家族が、きちがいだった。この、きちがい家族のことに関しては、ほかの人はまったくわからないのである。
そして、目立たないことなんだけど……きちがいヘビメタ騒音のことを言ってるときは目立たないことなのだけど、父親がきちがいなのだ。きちがい親父がいるということがもつ意味、というのが、ほかの人には絶対にわからないことなのだ。
これ、普通の家だったら、……もし、きちがい兄貴だけがきちがいだったら、そりゃ、親が「やめさせる」のである。せいぜい鳴らしていても、六カ月間だ。それをこえて鳴らすということは、子供側の人間かきちがいであったとしても、ない。
ところが、きちがい兄貴のほかに、きちがい親父がいるので、そういうことが成り立ってしまうのである。普通に、成り立ってしまうのである。
この、きちがい親父が協力してくれない状態というのは、ありえない。きちがい親父が、きちがい兄貴の騒音について、まったく理解しないということも、ありえないことなのである。そして、きちがい親父が、きちがい兄貴にまったく注意をしないということも、ありえないことなのである。そして、きちがい親父が、毎日毎日、きちがい兄貴に注意しなかったのに、「注意してくれなかった」と一五年目に言われれば、「注意した、注意した」ときちがい親父が、荒れ狂うということも、絶対に、ほかのうちではないことなのである。