「どれだけなになにでも」といった言い方は、環境の格差を無視している言い方なのである。
ところが、環境の格差がでかいのである。
環境の格差がでかい影響をあたえる。
こういう、でかい影響をあたえる要素を、まったく考えないで、「どれだけなになにでも、Xをすれば、Yになる」というようなことを言うのは、おかしなことだ。
最初から、まちがっている。
まちがっていることを、えらそうに言うな。
環境というのは、環境と言えば、環境という一つの要素なのだけど、実際には、複数の要素が組み合わさって、「その人の」環境をつくりあげている。複数の要素なのである。
その重要な環境という要素をガン無視して、Xという、小さな要素に注目して、XをするかどうかがYになるかどうかを決定するという考え方は、おかしい。
どうしてなら、Xというのは、とるにたらない小さな要素だからだ。影響をあたえない要素を、わざわざ、つまみあげて、影響をあたえる要素をガン無視するなんておかしいだろ。
「人に親切にすれば、しあわせになる」……。その人がいままで生きてきた環境を無視して、人に親切にしたかどうかだけを、つまみあげる。しかも、今現在、しあわせではない人は、人に親切にしたことがないということを明示しているのである。
こんなのは、ない。
「どれだけふしあわせでも、どれだけつらくても、人に親切にすれば、しあわせになる」……そんなことはない。もともと、根がやさしい人がいたとする。
その人は、普段の状態で、人に対して親切だ。
ところが、きちがい家族のもとに生まれてしまったので不幸だとする。この場合、その人が不幸である原因は、人に親切になかったことではない。親切にしている。人に親切なのに、きちがい家族にやられて、ボロボロなのである。
だいたい、もともと、親切な人が、「よし、人に親切にしよう」と思うと、ろくなことがない。どうしてかというと、過剰に親切にすることになるからだ。
こういう場合は、自分が「思った親切」をしがちになる。そんなことを思わなければ、普通の親切な人なのに、そういうことを思ってしまうがゆえに、おしつけがましい人になってしまうのである。
こういう場合は、普通の程度に親切にする場合よりも、トラブルがしょうじやすい。
だいたい、「自分がしあわせになるために」人に親切にするというのは、もう、目的がちがってしまっているのである。親切にする場合は、相手のことだけを思って親切にすればよいのである。
「人に親切にして、自分の運をあげたい」「人に親切にして、自分がしあわせになりたい」……こういう気持で親切にするということ自体が、まちがっている。
ともかく、「親切にする機会」を「ねらっている状態」というのは、トラブルを起こしやすい状態だ。そういう、一見よさそうなことに注意をうばわれて、そのときになって、行動すると、かならず、トラブルがしょうじる。
どうしても、「自分が思った親切行為」をしがちになる。その「自分が思った親切行為」というのは、「親切にする機会」を「ねらっている状態」で思いついた親切行為なので、「相手が思っていること」とはちがってくる……ことが多い。