「不満を言わなければ、しあわせになる」かというと、そうではないのだ。環境から押し出されるものがある。たとえば、きちがい的な親と一緒に暮らしているこどもは、不満を感じる量が多くなるのである。そして、その不満は、実際の出来事に対応したものなのである。これを、「感じ方の問題」と考えてしまうのは、どうかと思う。「感じ方の問題」に関しては、以前書いたので省略する。
基本的には、「不満を言わなければ、しあわせになる」といった言葉は、相手の実感を無視する感覚によって成り立っている。
不満を言いたくなるような出来事の総量は、人によって変化がなく、だいたいおなじであるという前提に立ってものを言っているのである。このような前提自体がまちがっているので、結論もまちがっている。
その結論は、相手の現実、相手の実感を無視するものなのである。しかも、表面上は、相手の現実、相手の実感を無視したことになってないのである。相手の現実、相手の実感を理解したうえで「不満を言わなければ、しあわせになる」と言っているということになっている。すくなくても、「不満を言わなければ、しあわせになる」といったことを言う発言者の感じ方はそうだ。
そして、ほんとうは、法則性などはないのに、あたかも、法則性があるような印象をあたる言葉なのである。「不満を言わなければ、しあわせになる」というようなことを言う発言者は、法則性がある言葉をのべていると感じているだろう。しかし、法則性なんてない。
ようになっているのである。相手の実感を、無視することが理知的で合理的な態度だという暗黙の了解がある。それは、社会の洗脳によってつくりだされたものだ。