ほんとうに、つらい思いをしたやつが、「どんなにつらくても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」なんて言うと思う? そいつが経験したつらさというのはなんなのか? こんな意見を保持できるやつが、感じたつらさというのは、なんなのか?
「どんなにつらくても」というように「どんなに」という言葉を軽々しくつけることはやめるべきだ。これ、ほんとうに、人のつらさがわからないやつは、軽々しく、こういう言葉を口にする。「どんなことがあっても」「どんなにくるしくても」「どんなに悲しくても」……。どんなにという言葉をつけると、そのあとの言葉に、あらゆる、主観的な体験が含まれてしまうのだ。こんなの、相手のつらさをまったく理解できないやつが、使う言葉だ。自己チューなんだよ。幼児的万能感があるから、幼児的万能感に支配された言葉を言うわけ。そして、助言は役に立たない。「楽しい楽しいと言うこと」が助言の内容になるけど、これは、まったく役に立たない。どれだけ役に立たないかわからないのかな? 魔法的な解決法は意味がないと言っているだろ。ほんとうは、これ、本人の日常生活のなかでは、使われていない解決方法なのである。どうして使われないかというと、役に立たないからだ。まったく役に立たない。本人だって、現実的な問題に関しては、そんな方法は使ってない。こいつらが、たとえば、言霊を批判されたときに、どんな気持ちになるか? 腹がたつだろ。その腹がたったとき、「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるか? その、腹がたったとき、「うれしいうれしい」と言えばうれしくなるか? ただが、言霊理論を批判されただけなんだぞ。そして、批判には、意味があるんだぞ。理論的に、批判しかえすということを考えなければならない。そして、理論的に批判しかえすということができないなら、「どんなにくやしくても」相手が言ったことを認めるべきだ。
理論的に批判されるということが、一(いち)ぐらいの、不愉快なことなら、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が一(いち)秒間鳴っているということは、一千万ぐらいの、不愉快なことだ。そんなことを毎日やられていいわけがないだろ。ヘビメタ騒音のなかで、どれだけ「楽しい」なんて言ったって楽しくならないよ。さらに、「一秒後には、きちがい兄貴が正常な兄貴になって、ヘビメタをでかい音で鳴らすことをやめてくれる」と言ったって、ぜんぜん、やめなかった。事実はこうだ。
言霊を用いた解決方法の問題点は、ほかの方法にも成り立つ。「どんなに、なになにでも、XをすればYになる」というような構造をもつ方法には、言霊と同じ問題が成り立っている。