きちがい兄貴がきちがいだと、ぼくが人知れず、こまるということになってしまうのだ。きちがい兄貴のやり方は、普通のやり方じゃない。そして、自分がやったことに関する認知のしかたも、普通の人の認知のしかたじゃない。けど、そういうのは、「うち」の人にしかわからない。そして、兄貴自身は、まったく気がついていない。兄貴自身は、そういう、きちがい構造をもっていることで、自分がやっていることを、やってないつもりでやることができる。手放すはずがない。まったく、やってないことなのである。きちがい兄貴にとっては、きちがい的な意地でやったことは、全部、まったくやってないことなのである。やってないことなのだから、関係がないのである。だから、自分人関係があることとして、ヘビメタ騒音というものを認識することができない。そして、きちがい親父とおなじように、ほかの人の、苦痛というのはまったくわからない人間なのである。きちがい兄貴は、ほかの人の苦痛というのはわからない。自分が、「相手をこまらせている」のに、それがわからないのである。この「わからなさ」というのが、尋常ではないのである。普通の人は、どれだけいじわるな気持になっていても、そういうことはしないのである。どうしてかというと、普通の認知機能が働いているので、どうしても、認知してしまうことがあるからだ。いじわるな気持になっていじわるなことをした場合、いじわるなことをしたという認知がどうしても、しょうじてしまう。ところが、きちがい兄貴の場合は、どうてしも、これがしょうじない。きちがいだと、ほんとうに、普通の人が、普通に認知していることを、普通に認知しない。できないのだ。そうなると、「自分の王国」になる。ほんとうに、「やったってやってない」のである。これが、こまるんだよ。
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