ブラック企業と、ブラック家族というべきものは、似ている。ブラック家族というのは、きちがい的な親がいる家族のことだ。ブラック企業とブラック家族は似ているのだけど、ブラック家族のほうが、ひどい。より、ひどい。ブラック企業のしくみは、通常人が理解できるけど、ブラック家族のしくみは、通常人は、理解できない。逆立ちしたって、理解できない。しかし、似ているのである。きちがい的な親が、きちがい的なことをした場合、どういうことが生じるのか、きちがい的な親のもとで育ったことがないひとは、永遠にわからない。わかるわけがない。質がちがうからな。けど、ブラック企業とブラック家族は似ている。
ひどさだけに注目するなら、ブラック家族のほうが、ブラック企業よりも、一兆倍ひどい。そして、ブラック家族にやられた人は、絶対に、ブラック家族にやられてない人に、理解されない。ブラック企業で起こっていることは、普通の人にも、理解される。理解される範囲内に収まっている。きちがい家族がやることといったら、それはそれは、理解されない。理解される範囲におさまってない。つきでている。つきだしている。そういう部分がある。けど、そういう部分は、固有のきちがい的な親にやられた人じゃないとわからない。
きちがい側の「無意識」が問題をつくりだす。きちがい側が、きちがい的な意地でやったことは、きちがい的な意地で、きちがい側が認めない。あたかもやってないような感じで暮らしている。こんなのは、ない。普通の人の場合は、その人がきちがい的な意地でやったことは、覚えている。「やった」と言う感覚がある。この感覚がないのである。こんなのはない。だから、すべてが、この、見えない「無意識」という構造にからめとられてしまうのである。ブラック企業の場合は、ブラック企業といっても、「ひとのめ」はある。まあ、零細だとどうだかわからないけど……。ブラック家族だと「ひとのめ」が完全にない状態なのである。やりっぱなし、意識しないままで、生活できる。意地になってやっているほうが、意地になってやってないという前提と意識で、ずっと暮らすことができるのだ。こんなのは、ない。