老化なら、生きていれば、いずれは自分にも発生することであり、まわりに老人がたくさんいるので「そんなものなのかな」と思うことができる。しかし、「ヘビメタ騒音」だと、まわりにそんなことで悩んでいる人がいないし、自分との関係を考えられるわけではないから、『そんなのは関係がない』と簡単に無視することができることなのである。けど、ぼくの生活というのは、ヘビメタ騒音がはじまってから、ヘビメタ騒音でくるしいものだったのである。ずっとずっと、くるしいことなのである。で、この「わからなさ」「つうじなさ」が、いろいろな人間関係に影響をあたえるのである。そして、事実ヘビメタ騒音が鳴っていたので、社会的な地位が落ちていくのである。そうなると、かっこうの攻撃対象になるのである。そうなると、偏見の目で見られるようになるのである。そうなると、まず偏見の目で見たあとに、ヘビメタ騒音のことについて吟味するということになってしまうのである。「無職」の人は、悪い人だということになっていると、悪い人が言っていることだから、嘘に違いがないと思うようになるのである。こういうことが、つみかさなる。ヘビメタ騒音で引きこもりとよべる状態に追い込まれたのに、ヘビメタ騒音にやられてない人が、ヘビメタ騒音なんて関係がないと思うのである。俺の話を聞いてもそう思うのである。そして、引きこもりの人だから、お兄さんにうまく言えなかったにちがいがないと思うようになるのである。兄貴がきちがいだから、無意識的なレベルで感覚を無視して、でかい音で鳴らしていたのに、俺がコミュ障だから、お兄さんに言えなかったんだと思うようになるのである。ヘビメタ騒音に関する俺の話を聞いても、そう思うようになるのである。まず、偏見が成り立っているので、偏見にあわせた解釈をするのである。そういう、普通の人がどれだけ多かったか。これ、割合で言えば、九〇%以上なのである。そして、言霊のような、まったく役に立たない助言をするのである。
実際に、きちがい家族による毎日のヘビメタ騒音を経験したことがない人には、それがどういうことをもたらすのか、まったくわからない。実感は、まったくない。なので、勝手なことを言えるのである。けど、本人は本人のレベルで「理解したつもり」なのである。どれだけの乖離があるか。実際のヘビメタ騒音と、そいつの頭のなかにあるヘビメタ騒音のイメージと、どれだけの乖離があるか? もう、一兆キロぐらい離れている。話にならないほど、はなれている。まったく理解してないと言っていいレベルだ。ところが、「理解した」と(相手は)思っているのである。こういうことの繰り返しで、ぼくのこころがどれだけ、ボロボロになったか。誤解している相手に、どれだけ言ったってわかるものではないのだ。実際の経験がないと、実感がないから、わからないのだ。わからない相手が、勝手に小さく見積ったり、完全に無視して、いかがわしいことを言ってくる。この、いかがわしいことというのは、ほんとうに、頭にくることだ。「理解したつもり」になっている他人は、いいことを言っているつもりになっているかもしれないけど、それは、ひどいことだ。むなくそわるいことだ。いかがわしいことだ。まちがったことだ。実感がないからわからないというレベルでもまちがっいるし、偏見にもとづいた思考というレベルでも、まちがっている。
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いま、午後6時4分なんだけど、ヘビメタ騒音が鳴っている感じしかしない。ものすごい音圧で鳴っている感じしかしない。あんなの無視できるわけがないだろ。やられてない一般人が「そんなのは無視すればいい」「そんなのは気にしなければいい」と言うのさ。もう、全部が全部と言っていいほど、そういう人生だ。そういうことを言うやつが「気にしなくてもいい」のは、実際に、きちがいヘビメタが鳴ってなかったからだ。きちがい家族がいなかったからだ。うちなんて、ふたりも、いるんだぞ。実際にやられてなければ、一日の量だってわからない。実際に五〇〇〇日やられてなければ、五〇〇〇日つみかさなったときの、しんどさがわからない。わからなければ、「ない」のだよ。自分には関係がないし、自分の身の上にはそういうことが発生しなかった。そういうやつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、勝手なことを言ってくる。「人間働くべきだ」というのもそういうことの、ひとつだ。頭にくるだろ。こいつらのやったことは、忘れない。こいつらが、俺にやったことは、忘れない。俺は忘れない。