絶対量というものを考えるべきなのである。幸福なうちに生まれた人が一日一の量、つらい思いをするとする。不幸なうちに生まれた人が一日に一〇〇の量、つらい思いをする。一〇〇日経過すれば、幸福なうちに生まれた人は一〇〇のつらい思いを経験し、不幸なうちに生まれた人は一万のつらい思いをするということになる。
そして、幸福なうちに生まれた人が、不幸なうちに生まれた人に、「俺だってつらい思いをした」と言ってしまうのである。「どれだけつらい思いをしても、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言ってしまうのである。一〇〇日目ですら、九九〇〇の差がある。そういう差を、幸福なうちに生まれた人は、無視してしまう。
ちどれだけつらくたって、笑えばいいことがある」と言うのである。
けど、不幸なうちの人がが、無理やり笑ったところで、いいことなんてないんだよ。どうしてかというと、不幸なうちで生活しているからだ。構造的に、不幸なのである。構造的に不愉快なことが起こるようになっているのである。構造的に、腹だたしいことが起こるようになっているのである。
それは、たとえば、ほかの家族によってもたらされるものなのである。
だから、ほかの家族の性格というのは、影響がある。「いいこと」があるとか、「悪いこと」があるとかということに、一緒に暮らしているほかの家族の行動が関係している。影響がある。
ところが、そういう「環境」はガン無視して、ただ単に、「不幸だと感じる人は、不幸なのだ」と言ってしまうのである。
不幸なうちでも、幸福なうちでも、おなじことが発生しているのに、「不幸だと感じる人は、不幸だと感じて、幸福だ感じる人は、幸福だと感じる」というのである。
ようするに、不幸だと感じる人の感じ方の問題なんだということだ。
そして、「そういう感じ方をもっている人が悪いのだ」ということを言うのである。ようするに、「不幸な人の自己責任だ」というのである。幸福なうちに生まれた人が、気取って、えらそうに、そういうふうに言うのである。
しかし、「不幸なうちでも、幸福なうちでも、おなじことが発生している」という前提がまちがっている。こういう前提をかくして、結論を言うのである。
そうなると、「不幸なやつが悪いんだ」というような印象をあたえることに成功する。「不幸な人は、なんでもない出来事を、不幸な出来事だと受け止めるから、悪いんだ」というような印象をあたえることに成功する。
ところでなんだけど、絶対量の差を無視して、あたかも、「不幸な人の性格が悪いから不幸なんだ」とか「不幸な人が、普通の出来事を不幸な出来事だとらえるから悪いんだ」というような話を、聴いて、不幸な人が、よろこぶと思う?
絶対量を無視して、「自分は、つらくても、だいじょうぶだだいじょうぶだと自分に言い聞かせて生きてきた」というような武勇伝を、語りだすのはどうかと思うな。そして、これも、そういう話を聞いて、不幸な人が、いい話を聴いたと思うと思っているの?
絶対量を無視するな。ちがう環境で生きているのだから、不幸な出来事の量もちがう。そういうことを無視して、あたかも、同じ量をあびてきた(同じ量の不幸な出来事が起こった)という前提でものを言うな。同じ量の不幸な出来事が起こったという前提でものを言うのであれば、もちろん、自分は、相手より優れているということを自慢している。そういう自慢話を聴いて、聴かされたほうは、いい気分になると思っているの? いいことをしたと思っているの?
いいことをしたと思っているなら、まちがっている。基本、こういう話を聴かされたら、不愉快になるんだよ。説教しているほうが、いい気持になっているだけじゃないか。こんなことをして、いい助言をしたと思っているなんて、どんだけ、自己チューなんだよ。どんだけ、幼稚なんだよ。
不幸な家……親が気ちがいであるような家に生まれると、そうではない家に生まれたやつに、えらそうなことを言われる羽目になる。こいつらだって、機関銃のように攻撃してくるきちがい的な親と一緒に暮らしていたら、不愉快な思いをすることになる。そうなれば、不愉快そうな顔つきにもなる。それなのに、これも、得意がって批判するのだ。絶対量が少ないやつが、絶対量が多いやつの批判をする。絶対量が多いやつは、ただ単にいい親にめぐまれたから、普段、たてつづけに、不愉快な思いをしなくてもいい状態で暮らしているだけだ。それなのに、まるで、能力の差のように、自慢をする。
しかも、国家や社会がそういうことを奨励しているのである。そういう価値観をばらまいて洗脳をしている。これ、気がつけよ。