ヘビメタ騒音は、普通の騒音じゃないわけ。幼稚園の騒音や工事の騒音といっしょにするな。そりゃ、ヘビメタ騒音を一五年間やられて、騒音には敏感になった。
そりゃ、騒音で人生を破壊されているのだから、うらみがたまる。それから、みんながわかってないのは、騒音が鳴ってないときのしんどさなんだよな。
これが、どれだけつらいかわかってない。みんなが経験する騒音は、普通の騒音なんだよ。ぼくが経験した騒音は異次元の騒音だ。ぜんぜん、ちがう。
けど、「ちがう」と言っても、経験がない人にはわらないのである。騒音は鳴り終わったら、関係がないと思ってしまう。ぜんぜん、ちがう。どれだけ「ちがう」と言っても、そこのところが、ほかの人にはわからない。ほかの人は、異次元の騒音を経験したことがないし、合計で一五年間の騒音を経験したことがない。
きちがい兄貴によるきちがいヘビメタ騒音は、普通の騒音じゃない。
一五年間と書いたけど、最初の?七年間で、ぼくの人生が終わっている。もっと言えば、最初の一年間で、ぼくの人生が終わっている。一年間やられたら、そのあと、どれだけ、復活しようとしても復活できないからだになっている。
そういうことも、経験がない一般の人にはわからない。
だから、ぼくが、へんなふうに見えてしまうという問題が、しょうじる。けど、やられてない一般の人も、おなじ状態で一年間やられたら、わかるようになる。
ぜんぜん、ちがう。
きちがい家族による、ヘビメタ騒音なんだよ。『きちがい家族』というところがでかい。みんな、わかってない。きちがい兄貴は、普通の人じゃないのである。なので、普通の人がしないことをしている。
ほかの人のうちには、きちがい的な家族がいない。ほかの人のうちには、普通の人がしないことを、する家族がない。
そして、普通の人には考えらないことなのだけど、きちがい的な意地でやったことは、きちがい感覚で無視してしまうのである。本人のなかでは、「まったくやらなかったこと」とおなじなのである。本人のなかでは、「まったくやってないこと」とおなじなのである。
そういう感覚で、ずっとやられる。
きちがいだから、こだわりがすごいのである。
この、こだわりのすごさ、というのが、これまた、普通の人と暮らしている人にはわからない。だれだって、自分が、この世で、一番嫌いな音を、あの頻度と長さで、聞かされ続けたら、働けなくなるのに、それがわからない。
自分だって、ほんとうは、おなじことをやられたら働けなくなるのに、「自分だったら平気だ」という前提でものを言ってくる。実際に、やられなかったので、実際に「自分は平気」なのである。「自分は、いま現在平気だ」という感覚がある。「自分は、いま現在平気だ」という感覚が、「やられたって、平気だろう」という感覚をうみだすのである。