正確ではなくなるので、あんまり言いたくないことなのだけど、「本当のつかれ」と「普通のつかれ」というものを考えてみよう。一五年間にわたって、毎日、二時間しか眠れない状態で暮らしたときに感じるつかれが、本当のつかれだとする。いっぽう、月に、四回、残業することはあるけど、けっきょく、毎日八時間眠れる状態で、一五年間過ごしたときのつかれが、普通のつかれだとする。人生のなかで、本当のつかれを経験したことがない人は、普通のつかれについてしか、語れない。けど、自分だって、「つかれたことがある」ので「本当のつかれを知っている」という認識になる。もちろん、そういう認識が成り立てば、「自分だって、本当のつかれを知っている」と言うことができる。けど、本当は、「本当のつかれ」を知らない。知らないけど、だれが、その人が本当のつかれを知っているかどうかを判定するのかという問題がある。本人が「本当のつかれを知っている」と言うのであれば、それは、否定できない。
「自分が、本当につかれたとき、元気だ元気だと言ったら元気になった」……と言える。けど、それは、本当のつかれじゃない。「本当につかれたとき」と書いたけど「自分が本当のつかれを感じたとき」でも、いい。意味はかわらない。
『本当のつかれを感じるたびに「元気だ元気だ」と言って自分をはげましてきた……俺はそれができる。……おまえは、それができない。俺のほうがすぐれている』……こういうことを暗示しているのだ。こういう言葉にはそういう認識が含まれている。けど、こいつは、毎日二時間しか眠れなかった一五年間を経験してない。そういう意味では、そこまでは、つかれていない。「元気だ元気だ」と言えば、回復できるようなつかれしか経験したことがないのだ。もし、「元気だ元気だ」と言っても、回復できないようなつかれを経験していたら、「元気だ元気だと言えば元気になる」などとは口がさけても言えない。言っているのだから、「元気だ元気だ」と言っても、回復できないような本当のつかれを経験したことがないのだと予想できる。
本当のつかれを知らないものが、本当のつかれを知っているものにたいして、説教をするのだ。しかも、そこで提示されている有効な方法というのは、説教をする側の人間にとっては有効な方法なのであるけど、説教をされる側の人間にとってはまったく有効ではない方法なのだ。すべては、説教する側が、本当のつかれを知らないということから始まっている。説教をする側が、本当のつかれを知らないので、そこで提示される方法が有効な方法だと(主観的に)思い込んでいるのである。有効じゃない。無効だ。それどころか、じつは、有害な方法なのだ。有害さがわかってない。