きちがい家族による激しい騒音というのを、みんな、経験してないんだよな。それが、数千日続いてしまう状態というのを経験してない。その、はげしい騒音が、自分がこの世で、一番嫌いな音なんだよ。だから、この世で一番嫌いな音、家族による騒音、ほかの家族が黙認している騒音、一日のなかで、長時間鳴る騒音という、条件をみたしている。この条件(群)とおなじ条件(群)をみたしたことを経験している人が非常に少ない。人数としても少ないし、割合としたら、無視できるような割合だ。ようするに、九九・九九九九九%ぐらいの大多数の人はぼくが経験した騒音を経験してない。経験してない以上、からだがちがう。
まあ、言いたいことは、こういうことだ。「敵」のなかで暮らしている。「無理解さを発揮する敵」のなかで暮らしている……。 敵の言っていることは、すべて、きちがい家族による激しい騒音なんて関係がないという前提の上に成り立っている。そりゃ、そいつにとってみれば、そういう騒音がなかったわけだから、そういう騒音の影響がわからない。そして、そういう騒音がなかったわけだから、そういう騒音の影響を「実際に受けてない」。そういう騒音の影響がない体で暮らしている。そういう騒音の影響がない体で生きている。これが、ちがう。
いま、ほんとうに、このタイミングで、工事が始まって、がーがー、うるさい。けど、ぼくは、こういう文章を書いている。ががががーーと電動工具でものをけずっているような音がする。けど、ぼくはこういう文章を書いている。きちがいヘビメタ騒音なかで、文章が書けるかというと、書けない。きちがいヘビメタ騒音で頭がいっぱいで、文章を書くということができない。当然「眠る」ということもできない。当然「勉強をする」ということもできない。もう、まったく不可能な状態だ。こういう状態を、一日に何時間も、毎日経験してないやつが、騒音について語る。自分のつらい経験について語る。……それ、関係がないから。そして、そのえらそうなクソ野郎が(毎日通勤できる体を保持している)ということは、そいつの経験した騒音やそいつの経験したつらいことは、(毎日通勤できる体を保持できるよう)な騒音やつらいことでしかないということ意味している。通勤できる体を保持しているのでそういうことが言える。通勤できる体を保持して通勤しているので、通勤してない俺(エイリ)に対してえらそうなことを言える立場を保持できるのだ。発言の意味を考えるときには、発言の背景について考えなければならない。
工事の音源からだいたい一〇メートルぐらいは離れている。そして、きちがいヘビメタの音源とは一メートルも離れてなかった。音のでかさというのは、距離でぜんぜんちがう。音源の音のでかさで想像しがちなのだけど、音源の音のでかさとおなじように、あるいは、それ以上に、音源との距離が影響をあたえる。ぼくの部屋ときちがい兄貴の部屋はつながっている。床もつながっている。床からの個体振動だってある。あのでかいスピーカが、壁のうしろにあるわけだから、当然、床からの振動もある。壁からの振動もある。音ではなくて、振動なのだけど、音に合わせた振動もある。こういうことが「音圧」と表現したくなるようなちがいをつくりだす。ほんとうに、圧力がちがう。無視できない。ぜんぜん、ちがう。
「の」の連続は指摘しなくていい。