きちがい的な家族が鳴らすきちがいヘビメタ騒音にやられると、バカにバカにされることになる。こんな、人生、いやだよな。みんな、考えが浅い。浅すぎる。
そして、偏見に基づいて、バカにしてくる。
きちがいヘビメタ騒音がどういう騒音なのか、みんなわかってない。気ちがいによって鳴らされる騒音がどういうものなのか、わかってない。そのきちがいが家族の一員である場合についてわかってない。
さらに、一家の大黒柱である父親が、きちがい騒音を鳴らすきちがい家族をサポートしてしまうということがわかってない。サポートしてしまうということがわかってないし、サポートしてしまうということの意味がわかってない。
きちがい兄貴なんて、こだわってこだわってこだわって、絶対に一秒もゆずらないで、自分が鳴らしたい、最大の音で鳴らしているのに、ぜんぜん、でかい音で鳴らしてつもりがないんだよな。
それが、「ふりをしている」わけではなくて、きちがい的な頭の構造で、無視できるようになっている。こんなの、わかるわけがない。こんなのは、普通の人にわかるわけがない。そこが、ブラックボックスになっているんだよ。
そして、きちがい兄貴にとっては、まさしく、それが、ラッキーな能力になっている。気にしなくてもいいわけだから。そとから見れば、きちがい的な意地で鳴らしているのは一目瞭然なのに、本人は、「まったく鳴らしてない」「つもり」で暮らすことができる。
こんなのはない。
世間の人もわかってないけど、一番わかってないのが、きちがい兄貴なのだ。そういう、状態をさして「きちがい」だと言っているのに、それがまた、ほかの人にはわからないんだよな。そして、それがもたらすことのでかさがわからない。
実際に、一日でも経験してみろ。
五〇〇〇日、続いた状態を経験してみろ。
頭で考えていることとは、ちがうんだよ。
五〇〇〇日、鳴っていたということを、話で聞いた場合の「ぼく(エイリ)における影響」に関する考えと、実際に自分が経験した「自分における影響」に関する考えは、ちがってくる。けど、経験してないのだから、そんなのは、関係がないということになる。
実際、人生のなかでそういうことがしょうじなかったのだから、ひとごとであり、関係がない。関係がないということは、あっている。あっている。だから、ひとごととして、経験がないものとして、「おしはかっている」わけ。
で、その「おしはかった」結果が、現実とはまったくちがうわけ。おしはかって「関係がない」と言っているやつだって、実際に自分の人生において、そういうことがしょうじたら「関係がない」なんて言えない。
「いま(このとき)に集中すればいいんだ」なんて言えない。「受け止め方をかえればいいんだ」なんて言えない。
けど、実際には、自分の人生には発生しなかったので、「わかったつもり」になって、「関係がない」「いま(このとき)に集中すればいいんだ」「受け止め方をかえればいいんだ」と言える。
だから、まあ、きちがいにやられて、バカにバカにされる状態になっている。
実際には、五〇〇〇日以上、鳴ってた。
「いまこのとき」に影響がないわけがないだろ。ほんとうに、考えがあさいな。あさすぎる。