問題なのは、かつての『いやな記憶』をありありと思い出してしまうことだ。ほんとうに、そのときの感情がそのまま復活してしまう。そして、ぼくは、いろいろとくるしかった。
どうしたって、きちがい家族の影響はうける。
きちがい家族の影響というのは、きちがい家族との間にとどまらずに、他人との間に影響をあたえる。「不可避的」。
ところが、きちがい家族と一緒に住んでいない人が、「不可避的なことではない」というようなことを言いやがるのだ。そして、そのあとにつづく、助言なり説教なり、精神的な世界観なりというのは、とっくのとうに、ぼくによって、捨てられたものなのだ。
まったく、当時役に立たなかったことなのだ。そして、きちがい的な家族と一緒に住んだことがないから言える、いろいろなことというのがある。
これ、基準がちがうのである。
けど、基準がちがうということについて気がついているのは、ぼくと、少数の人たちだけなのである。少数の人たちというのは、きちがい家族にたたられたことがある人たちだ。
きちがい家族といっしょに住んでいた人たちだ。ま・る・で・ち・が・う。
普通の家でそんなことがあるわけがないということが、毎日毎日、毎時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒、成り立っている。
話がちがう。
ぜんぜんちがう。
話の前提がちがう。
ぜんぜんちがう。
どんだけちがうか、きちがい家族といっしょに住んだことがない人にはわからない。