『ドラえもん』というマンガに、スネ夫という子供が出てくる。スネ夫の親は、お金持ちで、スネ夫にものを買い与えることが好きな性格だ。スネ夫は、親が金持ち親だから、いろいろなものを買ってもらっている。これは、スネ夫の固有能力ではない。ところが、スネ夫は、自分には「引き寄せの力がある」から「もの」を引き寄せることができるのだと考えているとする。その場合、スネ夫にとって「引き寄せの力」というのがあるというというのは、あたりまえのことで、「自分には、その引き寄せの力がある」と考えているわけだ。それだけなら、別にいい。ところが、スネ夫が、「引き寄せの力があれば、ものを引き寄せることができる」と貧乏な家の子供に言ったらどうなるか? 貧乏な家の子供がどれだけ、「引き寄せの力」をつけようにしても、ものを引き寄せることができない。スネ夫からすれば、その貧乏な家の子供は、「引き寄せる力がないから貧乏なのだ」ということになる。しかし、それはちがうことを原因として考えているだけだ。つまり、まちがっている。『ドラえもん』というマンガには、のび太という子供が出てくる。のび太の家は、普通の家で、けっして、貧乏ではない。さらにのび太には、ドラえもんという強い味方がいる。貧乏な家の子供というのは、のび太よりも、はるかに貧乏で、カネがなく、ドラえもんもいない子供だ。その子供の、固有能力が低いからそうなっているわけではない。その子どもというのを、とりあえず、A君だとしよう。A君の親は、おカネがなく、こどもに物を買ってやれるよゆうがない。そして、A君の親は、こどもに物を買ってやることに非常に心理的な抵抗がある親だ。ようするにA君の親は、たとえ、金持ちでも、A君に、ものを買ってやるつもりがない親なのだ。そういう親のもとに生まれたということは、たしかに、不幸なことだ。しかし、これを、A君の自己責任だと言うことができるだろうか。まあ、前世とか、カルマという考え方を持ち出す人にとっては、それは、A君の自己責任なのである。まあ、自己責任論については、いろいろ語ってきたので、ここでは省略する。問題なのは、スネ夫が、貧乏な家の子供に「引き寄せる力を育てれば、ほしいものが手に入る」というようなことを言うことだ。あるいは、スネ夫が、「自分には、強い引き寄せの力があるけど、A君には、引き寄せの力がない」と考えることだ。スネ夫は、この時点で、自分には能力があり、A君には、能力がないと考えているということになる。そして、能力がないA君が、かわいそうだと思って、「引き寄せる力を強くすることを提案する」のである。引き寄せる力を強くするには、そのほしいものを強くイメージすればいい」というようなことを、スネ夫がA君に言ったとする。A君が、どれだけ、「そのほしいものを強くイメージしても、A君は、そのほしいものを手に入れることができない。A君はそのほしいものを引き寄せることができない。これは、A君の引き寄せる力が弱いからなのか? ちがう。A君の親が、金持ちではなく、A君に物を買ってあげるのがきらいな性格だから、A君は、A君がほしいものを手に入れることができないのだ。ほしいものを手に入れることができないということを、引き寄せる力が低いと言っているのだから、トートロジーになってしまっている。循環している。
スネ夫は、原因について、完全に、考え違いをしている。そして、自分の考えちがいに気がついてない。スネ夫の助言を、貧乏人の子ども(A君が)実行しても、A君が、ほしいものを手に入れることができるかというと、できない。ほしいものを手に入れることができないA君の状態」というのは、A君がつくりだしていることではなくて、A君の親がつくりだしていることだ。スネ夫と、A君には、「引き寄せ能力」なるものの、ちがいはない。ところが、スネ夫は、自分とA君のちがいは、「引き寄せ能力だ」と考えている。これに関しては、スネ夫は、別に悪意があるわけではない。ただ単に、勘違いをしているだけだ。まちがった考えにこだわっているだけだ。しかし、助言をするとか、提案をするとかとなると、問題がでかくなる。スネ夫は、A君が、A君の欲しいものを手にいられるように助言するのだけど、その助言がまちがっているのだ。けど、スネ夫が、スネ夫の「引き寄せ」という世界観をもっている限り、スネ夫は、自分のまちがいを認めない。そして、A君が引き寄せられないのは、A君の固有の問題だと思ってしまう。A君の固有の問題ではなくて、A君の親の問題なのだ。いずれにせよ、A君が、どれだけ「引き寄せ」をイメージしても、ほしいものを手に入れるということは、できない。関係がないからだ。原因はA君の親の経済力と、A君の親の考え方だ。「の」の重複は指摘しなくていい。「引き寄せ能力」の問題ではなくて、親の経済力と、親の考え方の問題なのだ。
問題なのは、スネ夫の助言が、A君に、失望をあたえるということだ。A君は、親の経済力と、親の考え方をかえない限り、「引き寄せ」に失敗する。ほしいものが手に入らないというとになる。スネ夫の助言は、意味がないばかりか、A君に「引き寄せ・失敗」の経験をあたえるのだ。 必然的に、失敗する。A君は、「引き寄せ」をイメージしても、ほしいものを手に入れることができない。そして、あろうことか、「引き寄せ能力がない」という「烙印」をおされるのだ。スネ夫が、A君には、引き寄せ能力がないという、烙印をおす。「引き寄せ能力欠如」の烙印。けど、それは、最初から決まっていることなのである。スネ夫の助言がまちがっているだから、スネ夫の言うとおりにしても、のぞんだ結果が得られない。ただ、そういうことが典型しているだけなのに、A君は、失敗の経験をして、引き寄せ能力欠如」の烙印をおされる。
まちがった助言をしているほうが、失敗の経験をして、みじめな思いをするのではなくて、まちがった助言をされたほうが、失敗の経験をして、みじめな思いをするのである。そして、「能力がない」と思うようになる。
いまの世の中というのは、そういう世の中なんだよ。
日当たり条件の人は、みんな、スネ夫のようなことをしている。ここに出てきたスネ夫のようなことをしている。みんな、大人だ。大人だけど、スネ夫のようなことをしている。