毎日鳴っていたということを、ぼくが言ったとする。他人には、毎日鳴っていたということがわかるわけだ。しかし、それは、それだけだ。毎日鳴って、毎日積もっていると、体と心にどういう影響があるのかは、わからない。これは、説明したってわからない。「そんなの気にしなければいい」というレベルの反応だ。自分のことではなくて、ほかの人のことだから、わからない。「遅刻することになる」「精神が影響をうけて、他人との関係にひびが入る」「楽しめない状態になる」というようなことを、どれだけ言っても、他人ごとなので、「必然性」がわからい。自分だったら、たとえそういうことがあったとしても、いまの自分の状態を保てると思っている。自分だったら、たとえそういうことがあっても、そんなことにはならないという「へんな」自信がある。そういう人が多い。そういう人ばかりだ。これは、ぼくにとっては屈辱的なことなのだ。ところが、ぼくにとって、……必然性があるぼくにとって……実際に体験してしまったぼくにとって……屈辱的なことだということがわからない。「そんなの気にしなければいい」と言った人は、別にそんなことは気にしてない。ほんとうに気にしてない。
他人は、必然性がわからないので、ぼくに対して、失礼なことを言う。他人は、必然性がわからないので、まちがった前提に立ったまちがった提案をする。しかし、まちがった前提に立っているということがわからない。こんなの、どれだけ説明したって、今度は、相手が腹をたてるだけで、どれだけ言っても、まちがった前提に立っているということがわからない。認めない。