自分は、引き寄せという方法でしあわせになったので、ほかの人に引き寄せという方法を教えてあげよう」と善意で引き寄せという方法について語りだすのである。善意。善意。しかし、その人は、引き寄せという方法でしあわせになったと思っているのかもしれないけど、じつは、引き寄せという方法でしあわせになったのではない。いい親のところに生まれたから、しあわせになったのだ。たとえば、スネ夫が、「自分がしあわせなのは、引き寄せという方法を知っていたからなんだ」と思っているとする。たとえば、スネ夫が「自分が、いろいろなものをもらえるのは、引き寄せの雨量があるからなんだ」と思ったとする。スネ夫は、自分が「いい親のところに生まれた」という要素……ほんとうの原因を……無視しているのである。その、ほんとうの原因を無視して、「引き寄せ能力がある」から「いろいろなものを引き寄せることができる」と勘違いしているのだ。だから、自分がやっている「引き寄せ能力を高める方法」が、ほかの人に有効であるはずがない。それは、げんに、いい親のもとに生まれて、ものをいっぱい買いあたらえれる人が、「引き寄せる方法を知っているから」自分は、ものをいっぱい引き寄せることができると思っている状態で『有効』な方法なので、貧乏な家に生まれたこどもが「その引き寄せる方法」を実行しても、ものを引き寄せることができないのである。これは、最初から決まっている。引き寄せ方法を知っているから、引き寄せることができるのではなくて、いい家に生まれたから、引き寄せることができるだけなのだ。方法の問題じゃない。だから、貧乏な家の子どもは、最初から、その方法だと失敗することが決まっているのである。しかし、そういう問題が「引き寄せる方法を知っているかどうか」という問題にすりかえらてれいる。
自分は、引き寄せという方法でしあわせになったと思っている人が、自分は引き寄せることがうまいから、引き寄せることがへたくそな人に、うまく引き寄せる方法を教えてあげようと思ったとする。それは、本人にとっては、「いいこと」なのである。カルマうんぬんで言えば、善行をしていることになる。ところが、実際には、悪い家に生まれたこどもを、追い込むことになる。悪い家に生まれたこども側の人間は、「引き寄せ能力がないからダメなんだ」と言われ始めるのである。「引き寄せトレーニングをしないからダメなんだ」ということを言われ始める。悪い家に生まれたから、不可避的に悪いことが起こっているにもかかわらず、「悪いことを引き寄せるからダメなんだ」と言われることになる。きちがい的な親がきちがい的な理由で怒っているとする。怒られているほうはなにもわるいことをしてないし、能力がないから怒られているわけではない。ところが、「引き寄せ能力がないからダメなんだ」「悪いことを引き寄せるからダメなんだ」と言われるのである。
そして、役に立たないばかりか、有害な方法をおしつけられるのである。善意で、極めて有害な方法をおしつけられることになる。そして、その方法ができないからダメなんだと言われることになる。これが、現世で起こっていることなのである。
それから、付け加えておくと、きちがい的な親にやられれば、不愉快そうな顔になる。それは、出来事に対応しているのである。ところが、幼稚な人は「不愉快な顔をしているから、不愉快な出来事を引き寄せる」と言って、きちがい的な親にやられた人を、せめはじめるのである。きちがい的な親ではなくて、きちがい的な親にやられている子供側の人を、せめはじめる。「どんだけ、幼稚なんだよ」とぼくは言いたくなる。