ヘビメタ騒音でだめになる」といった場合の「だめになる」という部分が、「毎日つみかさなったことがない人」にはわからないんだよな。友だちだろうが、先生だろうが、同僚だろうが、先輩だろうが、後輩だろうが、ともかく、わからない。「だめになる」……。これ、どれだけの、だめにならない努力をして、だめになっているか? わかるか? わかるわけがないんだよな。友だちをなくしたよ。これ、必然なんだよな。ずっと毎日続くと、どれだけ、そうならないように努力しても、そうなる。ヘビメタ騒音の毎日というのが、ほかの人には、わからない。経験的にわからない。人生のなかで、あんな特殊なことを経験したのは、俺だけだ。ぼくの知っている限りそうだ。六か月間だけやられた人を知っているけど、その人以外知らない。その人は、六カ月で終わっているので、ぼくとはちがう。「友だちの離れ方」というのが、人の想像をこえるものなのだ。こんなの、わかるわけがない。「どうしてもそうなっていく」という部分がわからない。「毎日」ということがわからない。毎日そうだと、この世では、そうなっていくのだ。友だちとわかれることになる。友だちとの間に、いろいろなトラブルがしょうじる。それは、毎日鳴ってたら、さけられないトラブルなのだ。いろいろなところで、いろいろなものがたまっていく。きちがい兄貴が鳴らしてた期間は、重要な期間だ。きちがい兄貴は、そういうことも、当然わかってない。いま、きちがい兄貴が、すんでいるマンションで、一分も鳴らさないことが可能なら、もちろん、うちでも、可能だったのだ。ところが、そういう気持がまったくないんだよね。可能だと重くってない。それどころか、一分間のあいだ、「こっちのために」しずかにしてやることすら、絶対に不可能なことなのだ。そういうモードでずっとやってきた。で、説明してもわからないと思うけど、きちがい家族によって、そうされているということは、ぼくの気分や能力に影響をあたえるのである。そうなると、ほかの人との人間関係にも、不可避的に、影響をあたえるのである。それが、言葉でつむぎだすのが不可能な部分にもおよんでいるのである。だから、ほかの人にはわからない。言葉で言えば、きちがいヘビメタにやられた影響があり、それが、人間関係にも影響をあたえるということになるのだけど、それだけじゃないのだ。そんな言葉に、もれない部分が、ある。そして、その見えない部分が、でかいのだ。そのでかい部分を、普通の人は無視する。宗教的なことを言う人も無視する。
重要なのは、鳴らされたことではなくて、きちがい的な家族によって鳴らされたことなのである。きちがい的な家族が、きちがい的な脳みその構造によって、無視した部分……それが、うめき声をあげているのである。あんなこと、やられて、いいわけがない。
ほかの人は、きちがい兄貴の『きちがい部分』がわかってない。きちがい的な感覚がわかってない。きちがい的な認知がわかってない。きちがい的な認識がわかってない。きちがい的な感覚で鳴らしているということが、ほかの人には絶対に理解不可能なのだけど、ものすごく、でかい影響をあたえている。それが、ほんとうは、ダイレクトに、友人関係に影響をあたえているのである。そりゃ、ぼくの行動をとおしてそれが発言されるわけだけど、「それ」に関しては、語ることができない部分なのだから、不可避的に、ぼくが誤解されることになる。