小学六年生の10月から、きちがいヘビメタがはじまっているわけだけど、俺のからだには、きちがいヘビメタ騒音の経験が「つまっている」。
で、ほんとうに、繰り返しで「できなくなる」。できたことができなくなるの……。それは、ちゃんと眠れるということにもあらわれる。ヘビメタ騒音前は、努力なんてしなくたって、ちゃんと眠れたの。そういう能力があったの……。
ところが、ヘビメタ騒音期間中と、ヘビメタ騒音期間後は、どれだけ努力しても、ちゃんと眠れなくなった。
いちおう省略して言うけど、ぼくが「できない」と言っていることは、できないことなんだよ。ぼくが、できないと言っていることは、いまのぼくにできないことなんだよ。ところが、「できる」という前提でものを言ってくる。「過去なんて関係がない」「過去の影響は関係がない」「できるといえば、できる」というような意見は、「できる」ということを前提にして言っている。
俺が「できない」と言っているのに、「できる」ということを前提にしてものを言うやつ……と、うまくいくわけがないでしょ。これはもう、宗教裁判みたいなもんなんだよ。「できない」と言っているの、「こうすればできるようになる」と魔法的解決法を提示するやつがいる……。その魔法的解決法は、役に立たないので、魔法的解決法をこころみても、「できないまま」なんだよ。それは、ずっとずっとやってきて、わかってることなんだよ。
きちがいヘビメタの時間というのは、こういうことを言う人たちが考えているような時間ではない。きちがいヘビメタの生活というのは、こういうことを言う人たちが考えているような生活ではない。もう、最初から、考えていることがちがう。
「できる」か「できないか」に関しても、ぼくができるかできないかについて話しているのに、ぼくが「できない」と言っているのに、それを無視して、「できる」という前提で話をすすめるやつが、「ぼくにとって」いい人間だとは思えない。
そこで提示される「方法」が現実的な方法とは思えない。きちがい兄貴が、きちがいでなければ、こんなことになってない。
「できる」という前提でものを言ってくる人間は、みんな、きちがいヘビメタ騒音や、それに相当する騒音を経験してない。
「想像」でものを言っているだけだ。ヘビメタ騒音や、それに相当する騒音の影響を、過小評価しているのである。あるいは、もっと言ってしまえば、無視している。
これは、言っちゃいけないことだけど、ヘビメタ騒音の影響を無視しているという意味で、きちがい兄貴や、きちがい親父とおなじなのである。きちがい兄貴やきちがい親父と、ヘビメタ騒音に関する認識がおなじなのである。
どうして、「言っちゃいけないことなんだけど」と言ったかというと、これを言うと、「できない」ということを無視して、妄想的な方法を提示した人は、みんな、「俺(妄想的な方法を提示した人)と、きちがい兄貴とやらが一緒だというのか?」とものすごい剣幕で言ってくるからだ。
まあ、すくなくても、ぼくの発言で、気分が悪くなったと言うことだろう。これ、なかなか、むずかしいことなのである。とりあえず、「できない」ということを無視して、妄想的な方法を提示した人のことをAさんと呼ぶことにする。
Aさんと、きちがい兄貴はおなじなのかどうか?
おなじじゃない。
Aさんは、うちでヘビメタを鳴らしてない。ぜんぜんちがう。ぼくに対して、騒音を浴びせかけてない。だから、ちがう。
けど、「できない」とぼくが言っているのに、「できる」という前提でものを言っていることにはかわりがないし、ヘビメタ騒音がそういうレベルの影響しかないと(まちがった)見積もりをしているということ関しては、きちがい兄貴とおなじなのである。
これ、ほんとうに、わかってないだけなのだ。自分がおなじことを経験したら……人生のおなじ時期に、おなじ期間の長さ、経験したら、わかることなんだよ。「できるわけがない」。「そんなことで、できるようになるわけがない」。こういったことが、普通にわかるはずなんだよ。経験してないからわからないだけなんだよ。
そして、きちがいヘビメタ騒音に関しては、この人たちは、犯人じゃない。Aさんは、犯人ではない。Aさんが、きちがいヘビメタを鳴らし続けたわけじゃない。だから、ちがう。「同じような人間だ」と言っているわけではないのだ。そういうことをするような「似たような人間」だと言っているわけではないのだ。
けど、Aさんは、自分と、きちがい兄貴とやらがおなじような人間だといわれたと、勘違いする可能性がある。あるいは、Aさんは、自分ときちがい兄貴とやらが人いる人間だと、言われたと勘違いする可能性がある。これは、勘違いだ。
ぼくは、たしかに、きちがい兄貴とAさんは、ヘビメタ騒音の影響を無視する点で似ていると言っている。けど、きちがい兄貴と、Aさんがおなじことをするような、おなじような性格の持ち主だとは言ってない。言ってないのだ。けど、誤解する可能性はある。
こういうことだって、きちがい兄貴が、きちがい兄貴ではなくて、普通の兄貴だったらしょうじないことなんだよ。みんな、きちがい兄貴の性格と、きちがい兄貴がやったことの影響ののでかさについて、考え違いをしている。「の」の重複は指摘しなくていい。
普通の家には、きちがい兄貴がいない。
きちがい兄貴のような感覚、あるいは、きちがい兄貴のような脳みそをもっている人がいない。ひとりもいない。だから、ほかの人にとって、きちがい兄貴は未知の存在なのである。あるいは、ほかの人にとって、きちがい兄貴がやったことは、未知のことなのである。自分の経験の範囲にはないことなのである。
だから、自分の経験の範囲にないことについて、「特に影響がない」と推論してましう。それは、本当に自分がおなじことを経験していたら、ありえないことだ。そんな推論は、絶対に成り立たない。おなじ経験をしているのに、そういう推論が成り立つということはない。
これ、みんな、わかってないから、そういうふうに勘違いしてしまうだけなのだ。
きちがい兄貴と、普通の兄貴は、ちがうんだよ。きちがい家族と、普通の家族は、根本において、ちがうんだよ。きちがい家族やこることの影響というのは、普通の家族がやることの影響とは、ちがうんだよ。
けど、やはり、おなじようなものだと仮定して、推論してしまう。だから、「俺だって、朝、眠りたいときはある」「俺だって、朝はつらい」「俺だって、徹夜したことがある」「俺だって、夜、眠れないときはある」……ちがうんだよ。きちがい兄貴の行為によってもたらさる、それらのことと、きちがい兄貴の行為によっもたらされたわけではない、それらのことは、ちがう。ぜんぜんちがう。質も、期間の長さも、ちがう。ぜんぜんちがう。