どれだけ説明しても、たいていの人にはわからないと思うけど、ぼくとおなじような環境で育ってきた人には、ひょっとしたらわかるかもしれないので、書いておく。
基本、きちがい家族と一緒に住んでいる人と、正常な家族と住んでいる人とでは、すんでいる世界がちがう。それぞれに、「自分はこうだった」という記憶がある。なので、その人が言う一般論は、「自分はこうだった」という記憶がベースになっている。
たとえば、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町に住んでいる人が、店を出した場合と、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人である町に住んでいる人が、店をだした場合とを、くらべてみよう。
一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町に店をだした人の場合は、かならず、トラブルがしょうじるのである。ものを売るとき、かならず、すべての人とトラブルが生じるようになる。
きちがいばかりが住んでいるので、きちがい的な基準でつっかかってくる人ばかりなので、ただたんに、ものを売るということでも、トラブルが続くということになる。
いっぽう、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町に店を出した人の場合は、ときどき、トラブルがしょうじるということになる。
そして、そのトラブルも、正常な人が引き起こすトラブルなのである。正常な人だって、機嫌が悪いときはある。八つ当たりしたい気持ちになって、八つ当たりする場合もある。
けど、その場合は、感覚器を書き換えていないので、自分が八つ当たりをしているということは、認識できるのである。なので、感覚器を書き換えているような異常な人とのトラブルとは、質がちがうということになる。
そういうトラブルに対する対象方法だって、ちがってくるのだ。
たとえば、自分の言い分をおさえて、まずゆずってあげれば、相手だって、自分がやったことはまずいことだったと反省して、今度は、八つ当たりをしなくなるという方法があるとする。そういう方法は、相手が正常なら、有効である場合がある。
その場合、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町に住んでいる人が、「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる(ゆずりかえしてくれる)」ということを言いだす。これは、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、正常な人の町では、真実なのである。正しいことなのである。しかし、一〇〇〇人中一〇〇〇人が、きちがいである町では、正しくないことなのである。真実ではないのである。
これが、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人には、わからない。法則性があることとして「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる」ということを言う。「Xをすれば、Yが起こる」「ゆずるということをすれば、相手もゆずってくれるということが起こる」ということを言う。「どんなばあいだってそうだ」と言ってしまうのである。
もし、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人が、一〇〇〇人中一〇〇〇人がきちがいの町に住んでいる人に助言をするとしたらどうなるか?
「ゆずってあげれば、相手も、ゆずってくれる」ということを言うのである。この場合、相手の悩みを解決するような、すごい方法を教えてあげているというとになる。だって、法則性があることなんだよ。どんな条件だって、それは成り立つという前提で言っているんだよ。そうしたら、「成り立たないなんてことはない」ということになるじゃないか。ところが、成り立たないのである。条件がちがうから成り立たない。けど、一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な町に住んでいる人は、『条件のちがいなんてない』と思っているのである。
だから、たちが悪い。
そうなると、不思議なことに、こまっている人が、もっともっと、追い込まれることになる。一〇〇〇人中一〇〇〇人が正常な人の町に住んでいる人も、まちがった前提でものを言ってくるということになる。こまっている人が、自分が助言したことを実行しないから、こまったままなんだと判断することになる。けど、この判断はまちがっている。