なんか、楽しいことを考えようとしても……。
きちがいが現前しているということが重要。きちがいが、襲い掛かってくるということが重要。きちがいが、きちがい的な理由で迷惑行為をしはじめるということが、重要。
きちがいが、きちがい的な理由で、迷惑行為をはじめたら、どんだけ「やめろ」と言っても、やめてくれないということが重要。
やめない理由もきちがい的な理由だ。
やめずにやりきったのに、やってないことになっているという感覚と、その感覚にもとづいた態度も異常だ。そういう異常なことが、常に成り立っているのである。どうしてかというと、きちがいがきちがい的な脳みそを搭載しているからである。
そして、その脳みそは、自分にとってだけ、都合がいいようにできているのである。自分がきちがい的な意地でやった、きちがい行為は、「やってないことになっている」のである。
これだけでも、普通の人とはちがう。
普通の人は、知らないふりをすることはできても、ほんとうに知らない状態になれるわけではない。ところが、きちがい家族だと、ほんとうに知らないのである。ほんとうに知らない状態なのである。こんなのは、ない。
きちがい親父は、きちがい的な理由で、怒り狂って、ぶちあたってきた。
これは、容赦がない。
相手が、小さければ小さいほど、安心して、自分の怒りを、その小さなものに、ぶちまけることができるのだ。相手が、小さければ小さいほど、安心して、相手を攻撃することができるのだ。
幼児なんて、恰好の攻撃対象だよ。
手加減をするはずがない。
その場合、きちがい親父が、人間の「ひながた」になってしまうのである。幼児側の人がもつ、「人間のひな型」になってしまうのである。
たとえば、人の気持ちを考えることが、生きていく上では、重要なのだけど、きちがいがぶちあたってくれば、きちがいの気持ちを必死になって考えることになる。幼児期にこういう経験がないやつには、絶対にわからない。
幼児期にこういう経験んがないやつは、たまたま、親が正常だっただけだ。
別に、異常なきちがいにやられていたにもかかわらず、人間のひな型が、異常なものにならなかったというわけではないのだ。
きちがいは、「気にしてほしく」て爆発しているのである。
そして、爆発することが決まっているのである。
うちのきちがい親父の場合、きちがい親父が自分の幼児に、怒り狂っていたわけだけど、どれだけ怒り狂っても、きちがい的な怒りがおさまることがないのである。どれだけ、目の前の幼児を攻撃しても、どこまでもどこまでも腹がたって、怒りが「解消」することがないのである。
どうしてかというと、怒りが……そこで爆発している怒りは、本来は、自分の育ての親に対する怒りだから、どれだけ、幼児に対して爆発しても、おさまることがなかったのである。
その場合、幼児のほうが、怒られないようにしようと思っても、むりなのである。怒る理由がなくても……その場に怒る理由がなくても……安心して怒り狂える対象に怒りをぶつけ続けるわけだから、幼児側の人にとっては、怒られないということは可能ではないのである。
そういう、きちがい的な親の気持ちが、人間の気持ちのひな型になってしまうのである。幼児が「人間の気持ち」というものを考えるときの、ひな形が、狂った人間の気持ちなのである。きちがい的な理由で、ささいなことで、怒り狂っていた「親」にやられた人は、その親の精神構造をもとにして、人間の精神構造を考えるようになるのである。きちがい的な理由で怒っているきちがい的な親の基準で、物事について考えるようになるのである。善悪について考えるようになるのである。「相手の気持ちを気にするな」というほうがむりなのである。
そして肝心なのは、「防衛」に失敗するということだ。どうして、失敗するかというと、親がきちがいだからだ。小さな理由で怒るという場合、その小さな理由のことを考えて、そういう小さなことが発生しないようにすればよいのだけど、すべてのことで、怒り狂うということになると、どれだけ、小さな理由に対処して、小さな理由が発生しないようにしても、怒り狂われるということは決まっているので、必然的に、「防衛」に失敗するのである。
この場合の「防衛」というのは、起こらないようにするということだ。理由がある場合、理由が発生しないようにすれば、怒られないのである。その理由では怒られない。小さな理由が一〇〇〇〇個あるのであれば、一〇〇〇〇個の理由に対処すれば、その小さな理由(群)では怒られないことになる。
その場合は、「防衛」に成功したということになる。怒られなくなるのだから、防衛に成功したということになる。
しかし、きちがい的な親が気ちがいなので、本来、怒る理由がまったくないところでも、発狂して怒るのである。その場合、それがそうであるということについて怒っているわけだから、根源的な理由を解消することにはいたらないのである。
きちがい的な親というのは「対処不可能性」をおしつけている。「対処不可能性」をともなった経験(実際の出来事)というのは、その人の意欲に影響をあたえる。
話がずれるけど、「意欲が出てきた」「意欲が出てきた」と言えば、意欲がでてくると言うことではないのである。「意欲が出てきた」と言う経験よりも、毎日の経験のほうが影響力がでかいのである。そして、「意欲が出てきた」と言うという経験は、「意欲が出てきた」と言っても、意欲がでてこないという、経験につながるのである。こっちが、メインになってしまうのである。言霊的な解決法は、まったく意味がないのである。とくに、きちがい的な親にやられている人間にとっては意味がない。きちがい的な親に「対処不可能性」を感じる出来事を、毎日毎日毎日、繰り返し、繰り返し、おしつけられている側の人間にとっては意味がないのである。
ところが、きちがい的な親にやられてない人間が、「意欲が出てきた」「意欲が出てきた」と言えば、意欲が出てくるというようなことを言う。これは、そういうことを言う人間が、きちがい的な親にやらなかったから、言えることだ。そして、幼児的万能感が残っている幼稚な人だから言えることだ。
意識的な命令よりも、実際に繰り返し繰り返し経験したことのほうが重要なのだ。なんで、それがわからないのか? どうして、杓子定規に、どんな場合でも、言霊は有効だと考えるのか? 意識的な命令というのは、意識的な自分が、自分に対して命令するというとだ。
言霊の場合は、言葉で命令するのである。思霊の場合は、思うことで命令するのである。けど、この場合の「思う」ということは、けっきょく、「言葉で思うこと」なので、言葉で命令するということになる。
なになにのほうが有益だから、なになにと思うように自分に命令しているのだ。「なになにのほうが、自分にとって利益があると思っているから、そうなるように、自分が自分のこころに対して命令をするのだ。このやり方は、合理的に思えるかもしれないが……すくなくても、言霊信者にしてみればじゅうぶんに合理的なやり方に思えるのだけど、実際の経験と、自分が有効だと思っていることのあいだに乖離がある人間にとっては、合理的なやり方ではない。
ところが、言霊主義者が考える「人間」のなかに「実際の経験と、自分が有効だと思っていることのあいだに乖離がある人間」も含まれているのだ。なので、食い違いがしょうじる。