きちがいヘビメタが、無職や遅刻常習者や引きこもりというレッテルを自動的に貼りつけてしまうのだ。きちがいヘビメタが、運び込んでしまう。こっちは、最大の努力をして、そういうふうにならないように頑張ってきた。それが、そういう状態を運び込んでしまうのだ。
いま、つくづく思うのは、「無職だ」と言わなければよかったということだ。相手が、俺のことを研究者だと思っているのなら、研究者だということにしておけばよかった。これ、バカ正直に、「研究者じゃない」と言ったので、いろいろなトラブルが発生しているのである。
努力うんぬんと言えば、「努力の方向がちがう」と言ってくるやつがいる。こういうのも、そいつが、きちがいヘビメタにさらされたことがないから、思いつくことだ。ぜんぜんちがうのである。ヘビメタ騒音を経験したものと、ヘビメタ騒音を経験してない者では、考えることが、ぜんぜんちがう。努力の方向もなにも、ヘビメタ騒音が鳴っているなかで、「生きる」としたら、努力せざるをえないのである。死にものぐるいの努力をしなければならなくなるのである。死にものぐるいの努力をして、遅刻常習者になり、働けなくなって無職になり、友だちとヘビメタ騒音をめぐるケンカをして、定義的に引きこもりにあてはまるようになる。ヘビメタが鳴っているということが、どういうことなのかぜんぜんわかってない。ヘビメタが、生活的に、常に!鳴っているということが、どういうことなのかわかってない。ヘビメタを鳴らしている主が、気ちがいだということがわかってない。ヘビメタを鳴らしている主が、家族の一員だということが、わかってない。ぼくが、家族の一員だということを言えば、わかったわけで、わかってないということにはならないと思うだろう。正確に言えば、家族の一員だということの意味がわかってないのである。ヘビメタの主が家族の一員であるか、他人であるかということは、じつは、ものすごくでかい意味をもっている。これが、「生活的に」わかってないのである。そりゃ、きちがい兄貴が鳴らしたと言えば、兄が鳴らしたということ自体は伝わるわけだから、家族の一員が鳴らしたということは、理解できるということになる。わかったということになる。けど、ちがうのだ。家族が鳴らしているということが、どういう意味を持つのか、ぜんぜんわかってない。
ヘビメタが鳴っているからと言って、友達とケンカをする必要はないということを考えるやつがいると思う。ようするに、ヘビメタと友達とのケンカは関係がないということを考えるやつが出てくると思う。必然性に関する疑問だ。必然性……あるんだよ。時の流れとともにどうしても、そうなるのだ。こんなのは、ほんとうに、経験してみなければなわからないと思う。みんな、必然性が見えてない。こんなにはっきりしたものはないのに、みんな、見えてない。十数年続けば、そりゃ、おかしくなる。こっちがいい人で、あっちもいい人でも、十数年、家族によるきちがいヘビメタ騒音が続けば、交友にひびが入るのである。それは、社会システムとも関係があるのだけど、そうなる。必然性、ある。十数年の変化で、交友関係がかわる。人間の関係がかわる。そうなると、必然的に、ケンカ別れをすることになる。これは、不可思議な力でそうなると言ってもいい。不可思議な、符合的な力によって、そこに押し出されてしまうということだ。不可思議な力というのは、じつは、社会常識と個人の思考によってもたらされるものだ。これ、ほんとうにそうなるのである。