まあ、正直に言うけど、「憂鬱」と言っても「憂鬱」のレベルがちがうんだよ。そして、その憂鬱をつくりだしたのが、一方では「正論」なんだよ。「やらなければならないことだから、やるべきだ」という正論だ。
これが、きちがいヘビメタが鳴っている状態だと、どうしても、通せないことになる。ところが、きちがい家族が鳴らす、きちがいヘビメタ騒音がない人だと、「やらなければならないことだから、やるべきだ」ということを、通せる。やり通すことができる。
それは、それなりにくるしいことだから、本人は「どんなにくるしいことだって」と言いたくなる。そして、言う。けど、その人だって、ヘビメタ騒音があれば、ちがってくる。
その人だって、ヘビメタ騒音の繰り返しがあればちがってくる。
ヘビメタ騒音だけでは、そういう状態は、しょうじない。作用と反作用のように、ヘビメタ騒音が押し出すものに関して、押し返してくるものがなければ、「ほんとうにくるしい状態」というのがしょうじない。
ほんとうにくるしい状態……。ヘビメタ騒音ありの本当にくるしい状態と、へびめたそうおんなしのほんとうにくるしい状態がちがう。けど、世の中の人というのは、きちがい家族がいないので、きちがい家族が、くりだす、ヘビメタ騒音を知らない。残酷さを知らない。無関心さを知らない。
これ、きちがいだからできることなんだよ。
そして、まあ、「うち」だからできることなんだよ。きちがいヘビメタをやらてれない人が言う、「どんなにくるしいことだって」というのは、ヘビメタ騒音がないくるしさなんだよ。ヘビメタ騒音がない人が感じる、日常的なくるしさなんだよ。
おまえ、きちがい家族と一緒暮らしてないじゃないか。
きちがい家族が、息をするように、毎日毎日鳴らす、ヘビメタ騒音にさらされたことがないじゃないか。
おまえ、それ、ぜんぜんちがう。