たとえば、条件を考えてみよう。親がきちがいかどうかという条件と、親が金をもっているかという条件について考えるとする。そうなると、以下の四つの組み合わせができる。
(1)親が正常で、親が金持ち
(2)親が正常で、親が金持ちではない
(3)親が異常で、親が金持ち
(4)親が異常で、親が金持ちではない
(1)と(4)では、相当に開きがある。そして、(4)の子どもが経験する不愉快な出来事を(1)の子供は経験しないということになる。(1)の子供には、(4)の「つらさ」がまったくわからないのである。(4)はきちがい的な親にやられて必然的に不愉快な思いをすることになるけど、(1)の子供には、そういう経験がないので、(1)の子供には、(4)の「つらさ」はわからないということになる。けど、正常な親の子供だって、「つらさ」は経験する。そりゃ、人間として生きていれば、「つらいこと」を経験することもある。しかし、(1)の子供がもっているつらさと、(4)の子供がもっているつらさは、比較することができないほど、質的にちがっているのだ。けど、それは、(1)(2)の子供にはわからない。(3)の子供の場合、親が子供に、金を使うとは限らない。こどもになにかをしてやることに、異常な抵抗がある親は、たとえ、本人が金持ちであっても、こどもに金を使わない。そうなると、子供側の人間から見ると、親が金持ちではない場合とおなじになる。金持ちではないというグループのなかには、「普通」と「貧乏」が含まれる。「普通」と「貧乏」は相当にちがうので、ほんとうは、わけるべきだ。しかし、ここで、三つの分類をつくると、複雑になるので、とりあえず、ふたつの分類で話をすすめることにする。なので、(3)の親が、こどもに金を使うことを拒むようなタイプだと、(3)は、本質的には(4)になる。なので、(3)の親がどういうタイプの異常者なのかで、(3)になるか、(4)になるかがちがってくる。一部の(3)の子供は、実質的には(4)だ。子供に、ありとあらゆるものを買ってあげて、こどものやる気をそぐ親だっている。これは、貧乏な親にはできないけど、金持ちの親ならできることだ。だから、(3)場合、親がどの分野で異常なのかということが問題になる。まあ、とりあえず、(3)の親が異常なケチだった場合は、(3)の子供は(4)に変化する場合があるということを指摘しておきたい。以降、(4)に変化した(3)の子供は、(4)としてあつかうことにする。子供の目線で、いろいろなものを買ってもらえるかどうかが重要なので、親が金持ちかどうかというのは、条件として重要だけど、その条件というのは、親の性格のほうに従属する条件なので、親の性格が異常なケチだった場合は、金持ちの親でも、金持ちではない親とおなじだということになる。
(1)と(2)をたした割合と(3)と(4)をたした割合をくらべると、(1)と(1)をたした割合のほうが大きいと言うことになる。なんでなら、異常なほうが大きな割合を占めるなら、その異常が、正常になってしまうからだ。その異常な性格は、正常な性格になる。なので、割合がひっくりかえるということはない。正常な親グループのほうが、異常な親グループよりも、圧倒的に、割合が大きい。なので、正常な親グループは、圧倒的な多数派になり、異常な親グループは少数派になる。その場合、(1)と(2)属する子供側の人間は、(3)と(4)に属する子供側の感覚が経験的にわからないのだから、(1)と(2)に属する子供側の人間は、ずっと(3)と(4)に属する子供側の感覚を理解することができない。感覚と書いたけど、(3)と(4)の「現実」と書いてもいい。しかし、(1)と(2)の人間にしても、生きていれば、親とのトラブルがある。なので、「私だって、親とのトラブルを経験した」と言うことができる。しかし、それは、(3)と(4)のに属する子供側の人間が経験するトラブルとは質的に異なるトラブルなのである。なので、質的に異なるトラブルは質的に異なる影響をあたえる。しかし、(1)と(2)に属する子供側の人間には、それがまったくわからないのである。なので、(1)と(2)に属する子供側の人間は、常に、無理解ぶりを発揮する。しかし、無理解なほうが多数派なのだから、無理解な感覚にもとづいた発言のほうが正しいということになってしまうのだ。別に、公的な多数決をやらなくても、「考え方」の多数決はつねにやっている。行動や発言で、それをしめしている。
* * *
「子供時代のことは大人になったら関係がない」「すべては、自己責任」「すべては、感じ方の問題」……こういう考え方は、(1)と(2)発言なのだ。「関係がないわけがないだろ」「(すべてが)自己責任であるはずがないだろ」「(すべてが)感じ方の問題であるはずがないだろ」と言いたくなる。しかし、それは、多数派である(1)と(2)によって無視されるのである。
* * *
はっきり言ってしまうと、親が気ちがいであった場合、経験するトラブルの質がちがうのである。正常な親とのあいだにあるトラブルと、きちがい的な親との間にあるトラブルの質がちがう。うちの場合、母親が正常で、父親が気ちがいだったから、それは、わかる。両親とも正常である親に育てられた人が、『うちの親だって』と言って語る内容が、ちがいすぎるのである。きちがい的な親というのは、正常な親に育てられた正常な人が思うようなやり方でたたっているわけではないのである。正常な親に育てられた正常な人が、考えることができないよう方法で、常に!たたっている。そういう脳みそを搭載しているので、そういう行動を自動的にするのである。そして、そういう脳みそがかわらない限り、そういう行動がかわらないのである。本質的なところで狂っている人といっしょに暮らすということが、どういうことなのか、普通の人は想像することすらできない。できないのだけど、話を聞いて、想像したつもりになり、自分の想像が正しいと思い込んでしまうのである。そして、正常な親とのトラブルについて、『わたしだって』と語りだす。
* * *
影響はあるに決まっているのに、『影響なんてない』と決めつけるやつがいる。こういうやつは、こういうやつで、宗教家に似た、妄想的な信念をもっている。ただ、その信念は、悪が支配するこの世では、有効な信念なのである。