自分は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人は、そういうふうに思っているのである。
だから、善意で、ほかの人に「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやけば、しあわせになれるということを言うわけだ。
けど、ほかの人が「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいても、しあわせにはなれない。「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやくことで、運を引き寄せて、しあわせになることができるというのは、その人の妄想だからだ。
考え違いをしているのである。
自分は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人の家は、じつは、たいへん裕福で、親の性格もよかったとする。
その場合、裕福であることと、親性格がいいということは、その人のしあわせに影響をあたえる。とりあえず、その人と書いたけど、自分は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人のことだ。
「自分」は、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいてきたので、運を引き寄せて、しあわせになったと考えている人のことを、Zさんと呼ぶことにする。Zさんは、たいへん裕福な家に生まれたし、親の性格もよかった。その場合、「自分」は、たいへん裕福な家に生まれたし、親の性格もよかったから、しあわせになったと考えたほうが、「ウン・コロコロ・アップ」とつぶやいたからしあわせになったと考えるよりも、合理的なのである。
ところが、Zさんは、「たいへん裕福な家に生まれて、親の性格もよかった」ということをガン無視してしまう。そして、「ウン・コロコロ・アップ」だけに注目してしまう。
言霊のところでも書いたけど、「理由」について勘違いしている人は多い。
とくに、めぐまれた環境で育った人は、めぐまれた環境で育ったということを、積極的に無視してしまう。「自分は普通の環境で育った」と考えてしまうのだ。そして、「自分のへんなくせ」に注目する。そして、自分はその固有能力があるから、しあわせになったと考えてしまうのだ。
たとえば、「引き寄せ」という固有能力があったから、しあわせになったと考えてしまう。たとえば、「ウン・コロコロ・アップ」のすごいチカラに気がついて、それを実践してきたから、しあわせになったのだと考えてしまう。たとえば、言霊のチカラに気がついて、「成功するぞ、成功するぞ」と言ってきたから、成功したと考えてしまう。
こういうところに、そういう人たちの「自己中心性」とか「傲慢さ」がある。