たとえばの話なんだけど、きちがい親父が「もつ煮込み」にこったときがあるんだよ。医者が、もつ煮込みを食べたほうがいいといったから、もつ煮込みを食べ始めたんだけど、ただがもつ煮込みでも、トラブルがしょうじる。おやじが買ってくるもつ煮込みというのは、もう、もつ煮込みになっているものなんだよ。もつ煮込みになっているものをパックしてあるものなんだよ。だから、あたためれば、そのまま、もつ煮込みとして食べられるものなんだよ。けど、親父は、もつ煮込みは、ずっと煮込むものだと信じている。だから、あたためれば食べられるということをどれだけ(こっちが)言っても、煮込むことに、こだわる。で、何時間も煮込もうとする。何時間も煮込むと、台所だけではなくて、一階の部屋全部が、ものすごく臭くなる。あとは、きちがい親父が、火をつけたまま、ガスレンジのあるところから、はなれてしまうのである。これも、どれだけ(こっちが)言っても、「だいじょうぶだ」と言ってきかない。そして、何回も、鍋をこがしている。もつ煮込みが、ほとんどスミになった状態というのが、これまた、猛烈に臭いのである。くさいのである。くさいのである。何回もやっているんだよな。ほんとうに、壁がくさくなるわけ。すべてが、くさくなる。においが染みついてとれない状態になる。言っておくけど、これは、「魚の粕漬を出しっぱなしにして、ネズミをえづする」まえの話だ。だいぶまえにもこういうことがあったわけ。で、ぼくが、消臭剤を部屋全体にかけて、においを(たしょう)消すわけだけど、次の日には、親父が、もつ煮込みを……すでに出来上がっているもつ煮込みを、何時間も、煮込んで、部屋中をくさくする。そういうことが続いて、数年たったあと、やっと、やめさせたんだけど……俺が、やめてほしかったことというのは、もつ煮込みを食べることではない。もう、すでにできているもつ煮込みは、あたためれば、そのまま、もつ煮込みとしておいしく食べられるということを理解して、あたためるだけにしてほしかったのである。けど、親父は、「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」「もう、食べないよ!!!」と、逆上して怒鳴って、食べないようになったのである。もつ煮込みは、けっきょく、やめさせることができた。おやじにしても、「スミにしてしまうこと」だけは、失敗したと思うらしくて、「スミにしてしまう」ことだけは、さけようとしたのである。これ、鍋が、使い物にならなくなる。一回、もつ煮込みの液体部分をぜんぶ蒸発させて、固形部分をぜんぶスミにしてしまうと、鍋が、使い物にならなくなるのである。で、親父も、それだけは、「失敗した」と思っていたらしいんだよな。だから、親父も、「失敗した」と思う部分があったから、怒り狂って、爆発したあと、やめたわけ。けど、俺は、別に、親父にもつ煮込みを食べないほしいわけではないんだよ。普通のやり方であたためて、普通に食ってほしかっただけなんだよ。けど、そういうことが、まったくまったく通じない。これ、もつ煮込みのことではなくて、すべてのことに成り立っているんだよ。そういう頭の構造だから、そういうふうに反応するの……。おやじが、トイレを占領してしまうときがあるんだよ。で、おかあさんが、「ちょっとだけ、でてきてゆずってください」と言ったときがある。そうしたら、きちがい親父が、きちがい的な意地で、ゆずらない。絶対にゆずらないと、がんばりきる。おかあさんも、そのときは余裕がなかったから、何度も何度も言ったんだけど、何度も何度も言われると、よけいに、こだわってこだわって、でないようになる。トイレから出てこないようになる。で、けっきょく、何十分かして出てきたんだけど、「もう、家のトイレは使わないよ」ってどなりまくっているんだよね。「駅のトイレに行くからいい」と言ってきかない。「エキベンだ!!エキベンだ!!エキベンだ!!エキベンだ!!」と絶叫する。いつもいつも、この調子なんだよ。きちがい親父は、基本的に、「どかされる」のがいやなわけ。それは、よその家で、常に、虐待されて、どかされていたから、そうなっているわけ。おかあさんが言っていることは、ずっと、何十分もねばってないで、ちょっと、どけてくれ……トイレつを使わせてくれということなんだよ。おかあさんが使ったあと、また、入ればいいわけ。いくらなんでも、あれが、何十分も、何時間も出るわけではない。これ、その日は、ほんとうに、六〇分間ぐらい、こもっていた。おかあさんが言う前に、もう、六〇分ぐらいはたっていた。そのあと、もめて、でてこなかったわけだから、一時間、数十分、トイレにいだけだ。で、これも、おかあさんが言っていることは、「ちょっと、使わせて」ということなのだから、おかあさんに使わせてあげて、そのあと、自分が使いたいのであれば、使えばよかったのである。けど、そういうことが、つたわらない。相手が言っていることを理解しない、という、あほなところがある。それが、いつも同じパターンで理解しないのである。で、「こっちが言っていることはそんなことじゃない」ということを、どれだけ説明しても、理解しないのである。で、この親父の態度は、きちがい兄貴のヘビメタに対する態度とおなじだ。そっくりおなじなのである。うりふたつなのである。構造が、おなじなのである。あにきも、そういうところがある。きちがい兄貴は、たとえば、「でかい音だ」ということを無視している。これも、どれだけ気づかせようとしてもむだなのである。ともかく、自分が思ったとおりの音で鳴らさなければ、気がすまない状態になっているのである。鳴らすときは、いつもそういう状態なのである。ほかの人に、ぼくが、ヘビメタ騒音のことを言うと、「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「言えば静かにしてくれるだろ」と言って返してくるのだけど、ちがうのである。よその人は、よその人で、うちの兄貴のことがわかってない。「でかい音だ」ということは、耳が正常なら絶対に、わかることなのである。けど、そういう基本的なところを、きちがい兄貴が否定する。しかも、ほんとうに、「普通の音だ」「特にでかくない音だ」と思っているのである。芝居でやっているわけではないのである。普通なら、「そういうでかい音で鳴っていると、こまる」ということは、特に言わなくても、経験的に知っていることなのである。きちがい兄貴だって、幼稚園の音は「うるさく」感じるのである。きちがい兄貴だって、工事の音はうるさく感じるのである。耳が正常なのである。もっとも、ヘビメタ難聴になって、耳が正常ではなくなるのだけど、そういう音で鳴らし続けていたということだ。ヘビメタ難聴になるほどでかい音で鳴らしているのに、でかい音で鳴らしていると、ほんとうに思ってない状態なのである。こういうところが、(こっちにしてみれば)異常に腹がたつところなのである。これ、こういう、基本的なところを無視する人間と一緒に住んだことがない人にはわからないことだと思う。普通の人が、うるさい音で鳴らしているのとは、ちがうのである。これも、普通の人は理解しない。普通ではない家族と、いっしょに暮らしたことがない人には、わからない。こういう人間の無視のしかたは、異常だし、やれたほうにしてみれば、ものすごく腹がたつことなのである。普通の人は、「(そういう感覚)(そういう態度)がものすごく腹がたつことだということ」を認めないのである。そういう感覚の持ち主といっしょに暮らしたことがないので、そういう感覚手の持ち主に対して、どれだけのうらみがつみかさなるか、わかってない。そりゃそうだろ。でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているということは知っているけど、でかい音で鳴らしているということを認めない……というような普通の人の反応じゃないのである。きちがい兄貴は、気ちがいだから、ほんとうにでかい音で鳴らしてないと思っているのである。きちがい親父が「くさくないくさくない」と言っている時とおなじなのである。
話を親父にもどす。こっちが言っていることは、「もつ煮込みを食べるな」と言うことではないのである。こっちが言っていることは、『うちのトイレを使うな』と言うことではないのである。ところが、きちがい親父は、そういうふうに理解して、きちがい的に爆発するのである。これじゃ、まるで、ぼくが「もつ煮込みを食べるな」と言っているみたいじゃないか。これじゃ、まるで、おかあさんが「うちのトイレを使うな」「トイレを使うときは、駅のトイレを使え」と言っているみたいじゃないか。そういうふうに、こっちに『いやな思い』をさせるのである。こういうところは、じつは、老人ホームでも、ちょっとあった。まるで、こっちが、着るものを用意してあげてないみたいな感じになってしまうのである。着るものを買ってやると、「なんでそんなものを買った」「買うな買うな、買うな」と(弱った体で)精一杯の声を出して、どなるのである。よその人がいないところだとそういうふうになるの……。ほかの人が使っていた洋服をもらうと、ものすごく喜ぶのである。スタッフの人が、それじゃあということで、いらなくなった洋服を親父にくれたんだけど、親父はそういうのが好きなわけ。認知症になってからは、さらに複雑で、俺に対してよその人に対する態度が「でる」ときと、よその人に対して、うちの人に対する態度が出るときがあったのである。俺に対してよその人に対する態度が出るときは、「ありがとう。ありがとう」なんて言うんだよ。これは、八六年間ぐらい、ずっとなかった態度だ。入院していると、入院しているところが「うち」になって、ぼくが「よその人」になるときがあるんだねーー。けど、それは、死ぬ一年ぐらい前のことだから、うちにいるあいだは、もちろん、そういうことは、なかった。