「楽しいと言えば、楽しくなる」と言霊主義者はよく言うけど、ほんとうに、楽しくなるのだろうか? たとえば、ぼくが、「言霊理論はまちがっている」という説明をしたとする。その場合、言霊主義者は、かなりの確率でおこる。おこっているとき、「楽しい」とひとこと言えば、「ほんとうに」楽しくなるのだろうか? ほんとうは、楽しくならないのではないかと思う。不愉快な気持をかかえていると思う。かりに、楽しくなるとしよう。その場合の楽しい気持ちというのは、「楽しい」と言う前に楽しいと感じたときの楽しい気持ちと、ほんとうにおなじなのだろうか? 言霊主義者は、おなじだと思っているらしいのだ。けど、ぼくは、言霊によって、人工的に?意識的に?つくりだした「楽しい気持ち」というのは、「楽しい」などとは言わないで、ほんとうに楽しんでいるときの「楽しい気持ち」とはちがうと思う。「言えば、楽しくなる」というは、意識的な操作なのである。自分の脳みそに対して、この意識的な操作をおこない、楽しいと感じる……。脳みその一部である「意識的な脳みそ」が命令して、楽しく感じるのである。言霊理論を考えると、言霊には現実を変える力があるので、脳みその物理的な状態をかえる力があるということになるのである。これは、ほんとうに物理的な操作であって、自己暗示ではない。「楽しい」と言うと、脳みその状態に関係なく、そういう状態になるということ言っているのである。なぜなら、「楽しい」と言ったからだ。これは、脳のシナプスに影響をあたえて、楽しい状態を、まあ、言ってみれば分子的につくりだすのである。しかし、これは、現実的ではない。前にも見てきたように、「強い言霊」で物理法則を捻じ曲げて自分が思ったとおりの物理運動させるというとは、できない。言霊には、実はそういう力がない。言霊には、超物理的なパワーがないのだ。なので、ほんとうは、おこっているときに、「楽しい」といっだ場合は、言わなくても楽しいときのような状態にはならない。物理的に言って、ならない。シナプス間隙というのがあって、シナプス間隙に神経伝達物質を放出しているから、楽しいと感じているのである。もちろん、受容体に神経伝達物質がとどかなければならないのだが。この物理的な状態を完全に再現できるのだろうか? 完全に再現しているとは思えない。ともかく、おこっているのに「楽しい」と言って「楽しく感じた」ときの脳内の物質的な運動は、ほんとうに楽しいときの脳内の物質的な運動とはちがうはずなのである。
たとえば、A子ちゃんとB子ちゃんがいたとする。A子ちゃんは、B子ちゃんと遊ぶのが好きで、B子ちゃんとなんかのゲームをして遊んだとする。このとき、A子ちゃんは、別に「楽しい」と言わなくても、楽しいと感じている。そして、出来事の文脈がある。いろいろな時系列的な経験と、その経験の記憶があるから、A子ちゃんは、B子ちゃんと遊ぶのが好きになったのだ。こういう文脈を抜きにして、「楽しい」ということについて考えるというのは、「楽しい」という抽象的な状態について考えるということなのである。「楽しいと言えば、楽しく感じる」と言霊主義者は簡単に言うけど、この場合の「楽しい(状態)」というのは、抽象的な意味での「楽しい(状態)」なのである。自分が思い浮かべる、抽象的な意味での楽しい状態に、近い状態になったような気がするというのが、「楽しくなると言えば楽しくなる」ということのほんとうの意味だ。個別具体的な「楽しさ」ではなくて、抽象的な「楽しさ」をなんとなく考えてる状態に近い。抽象的な「楽しさ」を自分は感じているのだと、意識的に感じているのである。これは、出来事の文脈がある場合とは、完全にちがう。言霊主義者には「楽しいと言えば楽しくなる」という信念があるので、その信念にしたがって、「自分は楽しく感じいるにちがいがない」と思っている状態が「楽しくなる」の実情?だ。信念があるので、楽しく感じるにちがいがないと思って、楽しく感じたような気分になっているだけだ。これは、自然に楽しいときはちがう。脳内で発生している(様々な物質の)物理的な運動も、たぶん、ちがう。
* * *
じゃあ、逆に、楽しいときに「腹がたった」と言えば、腹がたつのだろうか? うれしいときに「頭にきた」と言えば「頭にくる」のだろうか。言霊主義者は、言霊の絶対的なチカラを信じていたので、具体的な文脈と言うものを無視してしまう。われわれは、出来事の連続体のなかにいるのである。出来事が、連続して起こっている。A子ちゃんがB子ちゃんといるときは楽しいなと思ったのだって、B子ちゃんといるときに、楽しいことが起こったので、B子ちゃんといるときは、楽しいことがあると思ったのだ。そういう過去の記憶と関係なしに相手に対する気持ちが決まるわけではない。きちがい的な父親と一緒にいると、きちがい的な父親がきちがい的な理由で、怒り狂って、ぶってくるので、きちがい的な父親といると「楽しくない」と感じるのである。そのとき、「楽しい」と言っても楽しくならない。
具体的な出来事と、出来事の連続を無視するのはよくない。具体的な出来事が連続して、「楽しい」と感じているのに、「腹がたつ」と言えば「腹がたつ」の? そんなことはないだろ。人間は、普通、具体的な文脈の中で「楽しい」とか「腹がたつ」と感じているのである。別に、具体的な文脈とは、関係なしに「楽しい」と言うから「楽しいと感じる」ということはない。ちゃんと、楽しいく感じているなら、それに至るまでの具体的な文脈と言うものがあるのである。その文脈というのは、出来事の文脈なのである。現実に起こったことの文脈なのである。
* * *
たとえば、言葉を知らない赤ん坊には、「楽しい」というような気持ちはないのだろうか? 言葉を知らない赤ん坊は「いたい」ということを感じることができないのだろうか? そんなことはない。