「すべては自己責任」という言葉をどういう意味つで使っているのかということが問題になる。「すべては自己責任」という言葉には「すべては他人の自己責任」という意味が込められている。そう意味を込めることができる。そういう意味で使うことができる。
「すべては自己責任」と言っている人自身が、すべては自分の責任だと言っている場合と、「すべては自己責任」と言っている人が、他人に対して、それは他人の自己責任だと言っている場合は、ちがうのである。対象が、自分のなのか、他人なのか(自分にとって他者であるのか)によって、言葉の意味が一八〇度ちがってくる。
おなじ言葉にちがう意味を込めて、時と場合によって、ちがった意味を込めて、その言葉を使うということが、「はやっている」。たとえば、「すべては自己責任」と言葉自体は、まったく同じなのだけど、対象が他者なのか、対象が自分のなのかで、意味が異なるのである。
だから、「すべては自己責任」という言葉をどういう意味で使っているのか、いちいち、確かめる必要がある。ところが、そんなことを気にする人はいない。ほとんどいない。ようするに、勝手に、都合よく、使いわけて、なんだかわかったようなことを言う……ということが「はやっている」。いろいろな人がそうしている。多くの人が、普通にそうしている。多くの人が、日常において、普通にそういうことをしている。
使うときによって、意味がちがうのである。おなじ言葉が使われているにもかかわらず、意味がまったくちがう。そして、おなじ言葉を使っているとき、意味がおなじだと思っているのである。「すべては自己責任」という言葉を使っている人は、自分が使っていることの言葉に、ちがう意味を込めて使っているという認識がない。
意味のちがいを意識しないで、その都度、使いわけているのである。こういう現象がある。「すべては自己責任」と言っている人の頭のなかには、他人を対象とした自己責任論と、自分を対象にした自己責任論が、「同居」している。
他人を対象とした自己責任論と、自分を対象にした自己責任論は、明確に区別されるべきなのだけど、区別されてない。そういう言葉を発する人は、区別してないのだ。普段から、まったく、区別してない。