ほんとうに、ヘビメタ騒音でつかれたなぁ。あれがどういうことなのか、ほかの人はわかってない。経験しなければ、どういう範囲で破損するのかがわからない。生活が破損する。感情が破損する。精神が破損する。からだが破損する。
きちがいヘビメタが鳴っているとき、階段の上り下りをするのがたいへんなんだよ。あの不愉快な圧迫感はない。耳をふさいで、「あーー」とか言いながら、階段をおりたりあがったりする。両手で両耳をふさいでも、がんがんがんがん、音がはいってくる。ものすごい音圧で、狂いそうになる。きちがい兄貴の部屋に行って、「やめろ」「やめろ」「しずかにしろ」「勉強するから静かにしろ」と怒鳴りまくっても、一秒もしずかにしてくれなかった。それが事実だ。ところが、「がんがん鳴らして、一秒もしずかにしてやらなかった」という認知・認識がないのだ。まったくない。弟が、必死になって「やめてくれ」と怒鳴っていたという記憶もない状態なのだ。まったく鳴らしてない状態ですごしているのとおなじなのだ。本人が……きちがい兄貴本人が、まったく、一秒もヘビメタを鳴らしてない状態とおなじなのだ。実際の行動は、きちがい的な意地で、こだわってこだわって、一秒もゆずらずに、鳴らしているのだけど、あたかも、「まったく鳴らしてない」つもりのままなのだ。そういう感情と認知と感覚なのだ。これが、きちがいなんだよ。
自分の感情しかないんだよね。親父が「やってやるやってやる」と言っているときのことを、前投稿で書いたけど、それは、親父がこっちにやってやりたくなって、言っているバージョンなんだよね。親父が、勝手にやっているときは、相手の言うことを絶対にきかないのだけど、きかなかったというつもりがないんだよね。むかし、おかあさんが「竹を植えないで!」「そんなところに、竹を植えたらあとでたいへんなことになるから、竹を植えないで」と何回も言っているのに、きちがい親父が、きちがい的な形相で無視して、植えちゃったんだよね。で、おかあさんが「竹を植えないでくれ」と言ってきたという、ことは、きちがい親父のなかで、ないわけ。言われたとき、顔を真っ赤にして、無視してやり続けたわけなんだけど、そういう記憶が、ごっそりぬけている状態なんだよね。だから、「竹を植えないで」と必死に言っていた、おかあさんに、「どうだ、いいだろ」なんて言うところがある。まるでわかってない。言われたら、「不都合なこと」はきちがい的な形相ではねのけて、なかったことにしちゃうんだよね。言われたときだけ、怒り狂って、反対のことを何回もさけんだり、あるいは、まったくなにも言わないまま、脂汗をかいて、からだじゅうを真っ赤にしてやってしまう。まったくなにも言わないバージョンを、とりあえず、無視バージョンとよぶことにする。そして、反対のことを逆上してさけぶバージョンを、反対語バージョンとよぶことにする。その場合、無視バージョンも、反対語バージョンも、なかで起こっていることは、ほとんど同じなんだよ。これ、きちがい的な人間……親父や兄貴のようなタイプのきちがいと一緒に暮らしたことがないと、わからない。このすさまじさがわからない。これ、無視バージョンのときも、反対語バージョンのときも、相手に言われたときだけ、きちがい的な意地でやっちゃうけど、なにも残らない。「やった」ということも残らないし、「相手が、自分にやめてくれと言ってきた」ということも残らない。まっーーったく、まっーーたく、残らない。これ、相手がどれだけ言っても、「なかったことに」になっているんだよね。自動的に……。このきちがい構造がわかるか? これがどういう影響をあたえるかわかるか? きちがい兄貴やきちがい親父が、きちがい的な意地でやったことは、本人にとって、とくに、きちがい的な意地でやったことではないことになっている。相手が「やめてくれ」と言ってきたということは、「なかったこと」になっている。相手の必死さと、自分の必死さがわかってないのである。自分が、必死になってやり勝ちをした……相手の言うことを聞いてやらなかったということが、まったく頭のなかに、残らないのである。出来事の記憶として残らないのである。それだと、「相手がまったく、(やめてくれと)言ってこなかったから、気がつかずにやった」ということと、記憶的にイコールなのである。このきちがい。このきちがい構造。「自分にとってだけ都合がいい」……この、脳みその構造。