たとえばの話なんだけど、自分が暗闇条件の種だったとして、好条件の種が「日当たり良好だと言えば、日当たり良好になる」というようなことを言ってきたらどう思うよ?
暗闇条件が成り立っているわけだから、「日当たり良好だ」と言っても、日当たりがよくなるわけではない。
ところが、「よくなる」と言うのだ。そして、だまされて、「日当たり良好だ」と何回も何回も言ったとする。それでも、もちろん、その言葉では、暗闇条件がかわるわけではないから、暗闇のままで、日当たりがよくならない。ならないんだよ。
箱をどけなければならない。
暗闇条件を成立させている箱をどけなければならない。
ところが、日当たり良好条件のやつらが、箱のことは無視して、「日当たり良好だ」と言えば、日当たり良好になると言うのだ。
もともと、日当たりがいいところに生まれたという生まれの条件にはまったく気がつかずに「自分は、日当たり良好だと言ったから、日当たりがいいところにいる」と思い込んでいるのだ。こういう誤謬がある。
もともと、役に立たない方法を、さも役に立つような方法であるかのように言われたときの気持ちは、どういうものか、考えたときがあるか。
そんなの、何回もやって、だめだということがわかっている……。そういう方法だ。
たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っているとき、「すぐに、ヘビメタが鳴りやむ」と言っても、鳴りやまなかった。これだけで、言霊が成り立ってないことがわかる。きちがい兄貴がやめなければ、きちがい兄貴のヘビメタは鳴りやまない。
どれだけ「ヘビメタが、一秒で鳴りやむ」と言っても鳴りやまなかった。
「明日は、ヘビメタが鳴らない」と言っても、明日になってみたら、ずっと鳴ってた。
きちがい兄貴が、きちがい兄貴の意思でやっていることだから、ぼくがどれだけ、言霊的な解決法を実行しても、だめだったのだ。
ちなみに、ヘビメタ騒音をあびすぎて、眠れなくなっているときに、「眠れる」と言っても、眠れなかった。
「言霊」「言霊」と言っているやつは、自分が、好条件のもとに生まれたということを無視している。
「日光があたっているところをイメージすればいい」というのも、言霊的な方法とおなじだ。とりあえず、イメージ方法と言っておくけど、イメージ方法の場合も、条件が成り立っている。
暗闇条件の種が、どれだけ、「日光があたっているところをイメージ」しても、日光があたるということはない。
どうしてかというと、暗闇条件の種が「日光があたっているところをイメージしてないから」日光があたってないという状態が成り立っているわけではないからだ。
日光があたってないのは、箱があるからだ。
箱を取り除いて、箱なし条件にしなければならいのである。
ところが、イメージ方法を提唱している人も、箱のことには一切触れずに、ただただ、イメージすればいいのだということを言う。
これが、どういうペテンかわからないのか?
日光があたるかあたらないか、そういうちがいをうみだしているのは箱だ。箱があるかないかが、そういうちがいをうみだしている。なので、箱があるかないかは重要なことだ。ところが、「箱があるかない」という「箱条件」を無視しやがる。
かならず、無視するのだ。魔法的な解決法を提唱している人は、みんな、箱条件を無視している。そして、箱が与える影響を無視している。
箱なんて関係がないと思っているのだ。
「日当たり良好と言ったかどうかが問題だ」と言うのだ。「日当たりがいい状態をイメージしているかどうかが問題だ」と言うのだ。
そして、そういうことを言う人たちは、みんな、好条件組なのである。