簡単に言っておくけど、「相手の問題だ」と思えば、相手の問題からか解放されるわけではないのである。これも、何度も言うけど、「相手の問題だ」と切り分ければ、相手の影響をうけなくてもすむという問題ではないのである。けど、「相手の問題だ」と切り分ければ、相手の影響をうけないことが可能だという自動思考がある。アドラーやアドラー信者は、あたかも、自分が問題を切り分ければ、それで、相手の影響をうけずにすむと考えてしまっているところがあるけど、それは、まちがった思考だ。一緒の家に住んでいれば、相手の影響をうけることがある。相手が、きちがい的な脳みそを搭載しているから、きちがい的な行動をする……という認知ができあがれば……自分の側の相手に対する認知ができあがれば、相手が、なにをしても、自分が影響をうけることはない……。そんなことはない。いっしょに住んでいれば、きちがい的な脳みそを搭載している相手の影響をうける。相手は、常に、二四時間中二四時間、その、きちがい的な思考する脳みそを搭載して生きている。勝手にやってしまうことがある。いっしょに住んでいれば、勝手にやってしまったことの影響をうけることがある。どうして、「相手の問題だ」と「問題を切り分ける」と影響をうけずにすむことになるのか? それは、アドラーやアドラー主義者が考えていることが、限定された条件で成り立つことだからだ。ちがう条件のもとでは、影響をうけるのである。ところが、そういうことを、事前に排除して、あたかも、すべての条件でこういうことが成り立つというようなことを言ってしまう。これは、トリックだ。
相手が自分のことを「こういうふうに」思っていたとしても、相手のその思いの影響をうけることがないのであれば、相手の問題だと切り分ければ、相手が自分のことを「こういうふうに思っている」ということからしょうじる問題とは、縁が切れる。けど、相手が思っているだけではなくて、実際に、自分になんらかの行為をするのであれば、相手が自分のことを「こういうふうに」思っているということの影響をうける。