やられたことがない人は、俺にむりなことを要求しているのに、やられたことがないから、むりなことを要求しているということがわからない。人間として、むりなことを要求している。むりなことを要求しているやつだって、俺とおなじ環境で、生まれ育ったら、やっぱり、その、要求していることが、むりなことになるのに、むりなことになると言うことが、わからない。経験がないからわからない。どれだけの出来事がつみかさなるかわからない。人間のからだがどういう反応をするのか、わからない。長期的に、人間のからだが、どういう状態になるのか、わからない。わからなくても、「疲労」とか「困難」という単語には、反応できる。ところが、反応しているときには、自分が経験した「疲労」、自分が経験した「困難」というものを、もとにして、ものを言うのである。けど、そのときは、もう、俺が経験した「疲労」ではないし、俺が経験した「困難」でもない。ぜんぜん、内容がちがってしまっている。しかし、抽象的には、「疲労」だろ……しかし、抽象的には「困難」だろ……なにもまちがってない……と感じる。しかし、しかし、やはり、その人の言っている「疲労」はヘビメタ騒音の疲労をさしてないのである。その人の言っている「困難」はヘビメタ騒音によって生じた困難をさしてないのである。一度、抽象的な言葉に変換されているから、そのものが、つたわってない。だから、抽象的な言葉を使って、その人の「疲労」やその人の「困難」について語りはじめるのだ。しかし、しかし、その人は、きちがい家族にやられたわけではない。きちがい家族と一緒に暮らしてきたわけではない。家族にやられたこと……に関しても、いちおうは、正常な家族にやられたことになる。正常な家族にやられたことをもとにして「疲労」とか「困難」について語っているのだ。だから、おなじことを話しているようでいて、じつはちがったことを話している。
いずれにせよ、通うことができる状態なのであれば……その困難は、そういう困難なのである。いずれにせよ、通うことができるのであれば、その疲労は、そういう疲労なのである。ぜんぜん、ちがう。
あと、もうつとつ付け加えるなら「身になった」困難なんて、困難じゃないよと……いうことだ。「身になった」か「身にならなかった」かは、重要な問題。けど、通っている人は、そういうことも無視してしまう。これ、通うことができる人……通勤通学ができる状態で、俺に対して説教をしている人は、みんな、まちがっている。みんな、みんな、まちがっている。そんな「身になる」困難じゃないのである。不利になるだけで、なにも生み出さない。マイナスなだけの困難……。きちがいヘビメタ騒音の困難は、そういう困難なんだよ。これも、みんな、……ほんとうに、みんな……勘違いしている。この、きちがい家族によって鳴らされた……ずっとずっとずっと鳴らされた音というのは、きちがい家族と一緒に暮らしている人にしわからない。相手が、きちがいなんだぞ。普通にくるっているんだぞ。いつもいつも、普通にくるっているんだぞ。普通の人だったら、言わなくてもわかることが、永遠にわからないんだぞ。おまえら……きちがい家族にやられてないやつらは……それが、わかってない。わかってないんだよ。わかってないだけなんだよ。
人間としてむりなことがある。人間としてむりなことを要求するな。まあ、人間としてむりなことなんだということが、経験的にわかってないんだよな。だから、この言葉も、どれだけ言っても、むだなのだろう。