AさんとBさんがいたとしよう。Aさんが遅刻したとしよう。その結果、Bさんが迷惑をこうむったとする。この場合、自己責任ということを考えるなら、迷惑をこうむったと感じたBさんの自己責任なのである。
しかし、もちろん、現実的には、Aさんがどんな理由で遅刻したのであれ、遅刻したのはAさんだから、Aさんの自己責任だということになると思う。
けど、これは、おかしい。(自分)というものを中心にして考えると、すべては自己責任だという場合は、すべては自分の責任だという考えるということを意味しているのである。
たとえば、AさんがBさんをなぐったとする。Bさんが妄想家で、Aさんがやったことではないことを、Aさんがやったと思って、Aさんをなぐったとする。
この場合、Aさんを中心にして考えるなら……AさんがなぐられたのはAさんの責任なのだ。これが、自己責任論における自己責任というものだ。すべては、自分の責任なのである。なにがおこったとしても、自分の責任なのである。自分を中心にして考えて、自分が自分の責任を追及するのが、自己責任だ。……これが、本来の自己責任の意味だ。
ところが、世間の人は、「他人」の自己責任を追及するのである。
「たとえどんな理由があろうと、なぐられたのがAさんなら、それは、Aさんの自己責任だ」と、ほかの人が言うのである。Aさんじゃなくて、ほかの人がそう考えて、そう、言うのである。ほかの人が、Aさんの自己責任を追及する。
本来の「自己責任論」で語られる自己責任は、自分を中心とした自分の自己責任なのである。自分の自己責任を追及できるのは、自分だけなのである。
Aさんが、(自分がなぐられたのは)自分の自己責任だと考えることには、問題はないが、他人が……Aさんがなぐられたのは、Aさんの自己責任だと考えることには、問題がある。
「なぜ、Aさんがなぐられたのかという理由」に関係なく、かならず、それは、Aさんの自己責任なのである。Aさんがそう考えるのではなくて、他人がそう考えるのである。Aさんの自己責任を追及しているのは「他人」なのである。
自分の自己責任を追及する自己責任と、他人……(ひと)……の自己責任を追及する自己責任は、あきらかにちがう。自分の自己責任を追及する自己責任論と、他人の自己責任を追及する自己責任論は、あきらかに、ちがうのである。
ところが、いいこととして、流通した自己責任論は、自分の自己責任を追及する自己責任論なのに、社会のなかで使われる自己責任論は、他人の自己責任を追及する自己責任論なのである。
これは、たぶん、最初から決まっていたのではないかと思う。トリックだ。社会において最下層の人?……生まれの格差で、生まれの格差「下」の「下」の人は、さまざまなハンディを背負っているのだけど、それがすべて、自己責任になってしまうのである。
これは、他人の不幸をあざ笑う態度だ。ハンディがしょうじたのは、その人のせいじゃないのに、その人のせいだということにしてしまうのである。言っているほうは、生まれの格差「下」の「下」の人よりも、いい状態で暮らしているのである。
生まれの格差「下」の「下」の人ほどは、ハンディを背負っていないのである。「すべては自己責任」という言葉のなかには、他人の不幸をあざわらう態度がある。
「不幸なのは(おまえ)が悪い」という意味で「すべては自己責任」という言葉を使っているのである。
ようするに、自分ではなくて、他者の責任を追及している。
たとえば、Aさんは、Aさんの自己責任しか追及できない。ところが、他者がAさんの自己責任を追及するのである。なので、そこのところで、言っている意味が逆転してしまう。
他人というのが、Cさんだとする、CさんはCさんの自己責任を追及していればいいのに、Aさんの自己責任を追及してしまうのである。本来の自己責任論というものを考えるなら、Cさんが責任を追及できるのは、Cさんに限られているのである。
Cさんが、Aさんという他人の責任を追及するなら、それは、他人の責任を追及しているのであるから、「他己責任論」なのである。Cさんが、他人であるAさんの責任を追及しているのである。
他人であるCさんが、Aさんの自己責任を追及するということは、Cさんから見て、他人であるAさんの責任を追及していることになる。
しかも、Aさんに起こったことは、すべて、Aさんの責任であるCさんが見なしているのだから、「すべては、他己(他者)の責任」ということになってしまっている。自己責任論における「自己責任」ではない。むしろ、「すべては、Aさんの責任である」という意味で、「他己(他者)責任論」になっている。