2023年7月1日土曜日

自分の自己責任を追及する自己責任論と、他人の自己責任を追及する自己責任論

 AさんとBさんがいたとしよう。Aさんが遅刻したとしよう。その結果、Bさんが迷惑をこうむったとする。この場合、自己責任ということを考えるなら、迷惑をこうむったと感じたBさんの自己責任なのである。

しかし、もちろん、現実的には、Aさんがどんな理由で遅刻したのであれ、遅刻したのはAさんだから、Aさんの自己責任だということになると思う。

けど、これは、おかしい。(自分)というものを中心にして考えると、すべては自己責任だという場合は、すべては自分の責任だという考えるということを意味しているのである。

たとえば、AさんがBさんをなぐったとする。Bさんが妄想家で、Aさんがやったことではないことを、Aさんがやったと思って、Aさんをなぐったとする。

この場合、Aさんを中心にして考えるなら……AさんがなぐられたのはAさんの責任なのだ。これが、自己責任論における自己責任というものだ。すべては、自分の責任なのである。なにがおこったとしても、自分の責任なのである。自分を中心にして考えて、自分が自分の責任を追及するのが、自己責任だ。……これが、本来の自己責任の意味だ。

ところが、世間の人は、「他人」の自己責任を追及するのである。

「たとえどんな理由があろうと、なぐられたのがAさんなら、それは、Aさんの自己責任だ」と、ほかの人が言うのである。Aさんじゃなくて、ほかの人がそう考えて、そう、言うのである。ほかの人が、Aさんの自己責任を追及する。

本来の「自己責任論」で語られる自己責任は、自分を中心とした自分の自己責任なのである。自分の自己責任を追及できるのは、自分だけなのである。

Aさんが、(自分がなぐられたのは)自分の自己責任だと考えることには、問題はないが、他人が……Aさんがなぐられたのは、Aさんの自己責任だと考えることには、問題がある。 

「なぜ、Aさんがなぐられたのかという理由」に関係なく、かならず、それは、Aさんの自己責任なのである。Aさんがそう考えるのではなくて、他人がそう考えるのである。Aさんの自己責任を追及しているのは「他人」なのである。

自分の自己責任を追及する自己責任と、他人……(ひと)……の自己責任を追及する自己責任は、あきらかにちがう。自分の自己責任を追及する自己責任論と、他人の自己責任を追及する自己責任論は、あきらかに、ちがうのである。

ところが、いいこととして、流通した自己責任論は、自分の自己責任を追及する自己責任論なのに、社会のなかで使われる自己責任論は、他人の自己責任を追及する自己責任論なのである。

これは、たぶん、最初から決まっていたのではないかと思う。トリックだ。社会において最下層の人?……生まれの格差で、生まれの格差「下」の「下」の人は、さまざまなハンディを背負っているのだけど、それがすべて、自己責任になってしまうのである。

これは、他人の不幸をあざ笑う態度だ。ハンディがしょうじたのは、その人のせいじゃないのに、その人のせいだということにしてしまうのである。言っているほうは、生まれの格差「下」の「下」の人よりも、いい状態で暮らしているのである。

生まれの格差「下」の「下」の人ほどは、ハンディを背負っていないのである。「すべては自己責任」という言葉のなかには、他人の不幸をあざわらう態度がある。

「不幸なのは(おまえ)が悪い」という意味で「すべては自己責任」という言葉を使っているのである。

ようするに、自分ではなくて、他者の責任を追及している。

たとえば、Aさんは、Aさんの自己責任しか追及できない。ところが、他者がAさんの自己責任を追及するのである。なので、そこのところで、言っている意味が逆転してしまう。

他人というのが、Cさんだとする、CさんはCさんの自己責任を追及していればいいのに、Aさんの自己責任を追及してしまうのである。本来の自己責任論というものを考えるなら、Cさんが責任を追及できるのは、Cさんに限られているのである。

Cさんが、Aさんという他人の責任を追及するなら、それは、他人の責任を追及しているのであるから、「他己責任論」なのである。Cさんが、他人であるAさんの責任を追及しているのである。

他人であるCさんが、Aさんの自己責任を追及するということは、Cさんから見て、他人であるAさんの責任を追及していることになる。

しかも、Aさんに起こったことは、すべて、Aさんの責任であるCさんが見なしているのだから、「すべては、他己(他者)の責任」ということになってしまっている。自己責任論における「自己責任」ではない。むしろ、「すべては、Aさんの責任である」という意味で、「他己(他者)責任論」になっている。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。