超自然的な言霊と言葉としての言霊がある。
ようするに、言霊主義者のなかで、このふたつが、混在しているのだ。
そして、言霊主義者は、このことについて、無頓着だ。超自然的な言霊について、語ったあと、言葉としての言葉について語るときがある。
とのとき、言霊主義者が両者のちがいについて意識しているかというと、意識してない。
ひどいのになると、言葉としての言霊が人のこころに影響をあたえるということを、根拠にして、超自然的な言霊があるということについて語りだす。ここらへんは、「言霊」というおなじ言葉を使っているから、本人が、混同して、言っているだけなのだけど、本人は、まったく気がつかない。自分の「言霊」という言葉の使い方は、正しいと思っている。
そういうことの背景には、幼児的万能感がある。
問題なのは、悪条件組の人間も、幼児的万能感をもっているということだ。
だから、暗闇箱条件の種が「日当たりがよくなるよくなる」と言い続けるような状態が発生する。日当たり良好条件の種にとって、「思ったことが現実化する」というのは、正しいことなのである。自分の経験から言って、正しいことだ。
ところが、それは、ちがう。
正しいと思っているだけだ。
ほんとうは、日当たり良好条件の種が、幹をのばし、葉っぱをたくさんつけたのは、日当たりがいいからだ。「自分はいっぱい葉っぱをつける」とか「自分はのびてのびてのびまくる」と言ったから、そうなったわけではないのだ。
ここらへん、誤解をしている。
まちがった理由を、正しい理由だと考えている。そういうふうに考えてしまうのは、幼児的万能感があるからだ。幼児的万能感の影響で、そう考えてしまう。まあ、擬人的に言ったので、種というのは、人間のことだ。
ほんとうに、そう思っているので、特に悪意がなく、まったく無駄な方法を、他人に押しつけることができる。
それは、事実、暗闇条件のもとに生まれなかったから、言えることだ。
ところが、条件というものについてまったく考えないで、自分の場合はこうだったから、こうだというふうに考えてしまう。事実、日当たりがよい条件下で、幹をのばし、葉っぱをつけた……ということが、そういう考えに影響をあたえる。
条件が成り立っていたのに、条件のことは無視してしまうのである。
暗闇条件下に生まれた人は、日当たり条件下に生まれた人とおなじ条件が成り立っているわけではない。
なので、当然のごとく、日当たり条件下化の人が無視できることが無視できない。日当たり条件下の人は、たとえば、暗闇箱がないから、暗闇箱があるという条件を無視できるのだ。
けど、暗闇箱がある人は、暗闇箱があるという条件を無視できない。
ところが、暗闇箱がある人も、幼児的万能感をもっているいるのである。だから、一般的なことを言えば、日当たり良好条件下の人が言う「言霊的なこと」「思霊的なこと」を(暗闇条件下の人が)信じてしまうときがある。
そういう場合がある。
ところが、信じてしまっているとき、どういうことがおこるかというと、つらいことがおこるのである。不幸なことがおこるのである。日当たり良好条件下の人が言うようにはならない。
日当たり条件下の人は、特に悪意があるわけではないけど、むだな方法……無効な方法を有効な方法だ言って、おしつけるところがある。