感情と表情というのは、関連しているものなのである。感情が表情をつくっている。その場合、たとえば、この世で一番嫌いな音を、強制的に一三時間(じゅうさんじかん)も聞かされたとしたら、それは、憂鬱な表情になる。
「やめてくれ」とどれだけ言っても、相手がやめてくれなければ、腹だたしい気分になる。腹立たしい気分になれば、腹立たしそうな顔になる。けど、これは、わざつくっているわけではない。他人が見て、「おこった表情」と言うことになる。
普通に、そういう表情になるわけで、他人から見て、おこった表情にしようと思っているわけではない。他人が、こういう表情の場合はおこっていると、推測するのは、その表情がそういう感情をあらわすものだということを、学習したからなのである。
ちなみに、鏡を見て、自分の表情を観察して、学習する場合もあるかもしれないけど、たいていは、他人の表情を見て、これは、おこっているとか、これは、悲しんでいるとか、そういうことを推測することを学習するのである。
これは、つくってない表情が感情と対応しているということなのである。つくった表情は、そういう学習のうえになっている。こういう表情なら、たぶん、相手は、こういうふうな感情なのだと思ってくれるということが成り立っている。
けど、実際には、つくった表情とつくってない表情は微妙に違っている場合が多いので、役者じゃなければ、そんなにはうまく、他人をだませない。役者にしたって、日常生活においては、おこっているけど、わらうということはしてない。
そして、おこっているけど、わらった場合の表情は、おかしくてわらっている場合の表情と、たしょうちがうはずなのである。いずれにせよ、人間というのは、表情のちがいに敏感で、つくった表情と、つくってない表情のちがいはだいたいわかるはずだ。もちろん、かならず、わかるわけではなくて、たいていの場合は、区別がつくはずだということだ。
たとえば、騒音で宿題ができないときは、腹がたった表情になるのである。相手がきちがいで、どれだけ言っても、でかい音で鳴らす場合は腹がたつのである。宿題をやっていかないと、こまったことになるので、やりたいのだけどできないという状態が何時間も続けば、腹がたつのである。
しずかにしてくれない兄に対する怒りがわいてくれるのである。けっきょく、宿題ができなかった場合の不安がわいてくるのである。
かりに、たとえばのなしだけど、ひどい騒音が鳴っている自分の部屋で、笑顔をつくっていればいいことがあるだろうか? そんなことはない。「笑っていればいいことがある」と言う人は、自分の場合は、「笑っていたら」いいことがあったということなのである。
その場合、まわりにいる人が……たとえば、「いつもニコニコしていて、明るくていいね」とかそういうことを言ったということなのである。その場合、まわりの人がいい人だからそういうことを言うわけである。
きちがい的な兄が、きちがい的な理由で、きちがい的な感覚で、きちがい的にでかい騒音鳴らしている部屋で、ニコニコしてたって、兄がやめてくれるわけではないので、いいことはない。
そして、きちがい的な兄が、きちがい的な理由で、きちがい的な感覚で、きちがい的にでかい騒音鳴らしているにもかかわらず、父親がそれに協力して、うしろから支援している場合は、やはり、そういう父親は、普通の人ではないのである。悪い人なのである。その場合、悪い人に囲まれて生きているということになる。
いい人に囲まれて生きていれば、いい人が、いい反応をかえしてくれるかもしれないけど、悪い人にこまれて生きていれば、悪い人は、いい反応かえさないのである。
悪い人は、きちがい的な理由で怒ってくる。きちがい的な父親がそうだった。きちがい的な理由で発狂するのである。きちがい的な兄は、弟が自分の騒音でこまっているということを、きちがい的な父のように理解せず、きちがい的な感覚で、鳴らし続けるてのである。その場合、ニコニコしていてもいいことはない。
他にも言いたいとはあるけど、省略して言っておく。どれだけ無理なことをおしつけているかわかってない。因果関係を逆転させて言う人たちがいるのである。言霊主義者もそうだ。実際に、現実的な理由で不幸な思いをして暮らしている人に、「ニコニコしていればいいことがある」などということをおしつけるということがどういうことなのかわかってない。まあ、そういうふうに言えば「おしつけてない」と言いかえしてくると思う。なので、おしつけるという表現はさけることにする。「無理難題をふっかけている」。
「悲しいから泣くのではなく、なくから悲しくなるのだ」とか「楽しいから、わらうのではなく、わらうから楽しいのだ」というような行動主義的な考え方について、ずっとまえに、書いたことがある。だから、それに関しては、ここでは省略する。こういうふうに、原因と結果を逆転して考えることが、はやっているのである。けど、まちがっている。省略したけど……。すでに、学習が成り立ってなければならないのである。どうして学習が成り立っているかということを考えなければならないのである。まあ、省略するけど……。言霊主義者も、原因と結果を逆転させて考えることがある。とくに、「ひとごと」だとその傾向が強い。「いたいと言うから、いたくなる」「くるしいと言うから、くるしくなる」というような考え方を、言霊主義者は、よくクチにする。しかし、いままで見てきたように、たいていの場合は、いたいと感じたあと、いたいと言うのである。これは、言霊主義者だってそうだ。たいていの場合は、くるしいと感じたあとに、くるしいと言うのだ。いたいと言うから、よけいにいたくなる……ちがうね。くるしいと言うから、よけいにくるしくなる……ちがうね。くるしいと言うかどうかと関係なく、くるしさがある。いたいと言うかどうかと関係なく、いたさがある。「いたいと言うから、いたくなる」という言葉を「いたいと言うから、よけいにいたくなる」という意味で言っているのではないかということを言う人たちがいるけど、いたいと言うから、よけいにいたくなる」と言う意味ではなくて、「いたいと言うからいたくなる」という意味で言っているのだ……言霊主義者は。まあ、普通の意味で言ったとしてもいい。ようするに、「いたいと言うから、いたくなる」という言葉には、「いたいと言うから、いたくなる」という意味と、「いたいと言うから、よけいにいたくなる」という意味の、両方があるとする。まず、「いたいと言うから、いたくなる」という意味のほうだけど、いたいと言う「から」いたくなるわけではない。いたいと感じたあと、いたいという言葉を言うだけだ。いたいと感じたあと、いたいと言っている。どこもいたくないのに、急に「いたい」と言って、いたいと感じたわけではない。「いたいと言うから、よけいにいたくなる」という意味の場合は、「いたいと言うから、よけいにいたくなるんじゃないかと、言霊主義者が感じているだけである。バイアスがかかっているだけだ。「言霊は正しい」と思っている人が、そういうふうに思っているときに、そういうふうに「感じる」だけだ。言霊主義者だって、実際の生活のなかでは、「いたいと言うから、よけいにいたくなる」ということを、忘れてしまっている場合があり、そういう場合は、「いたいと言うから、よけいにいたくなる」とは感じないのである。いたさは、「いたい」と、実際にクチに出して、わざわざ言うかどうかと関係なく、増減している。
まあ、主観の問題と表現の問題があるので「バイアスがかかっているだけだ」と言い切るのはやめておこう。バイアスがかかっているだけなのではないかと思う。
あと、言葉をしゃべれない人は、「いたい」と言わないので、「いたいと言うからいたくなる」ということは成り立たない。言葉をしゃべれず、なおかつ、神経がない人は、「いたい」と言わないし、「いたい」と感じない。ここでは、言葉がしゃべれず、関係がある人にかんして言及することにしよう。「いたいと言うから、いたくなる」という説の場合は、神経が正常であっても、言葉がしゃべれない人はいたさを感じないのである。そんなことがあるだろうか。ない。痛覚があるので、「いたい」と感じるのである。いたみを感じるレセプターが、打撲のような機械刺激を電気的な信号に変換し、その電気的な信号が……まあ……おおざっぱに言えば、神経を通って、脊髄に到達し、脳に到達するから、「いたい」と感じるのである。ようするに、たとえば、言葉をしゃべれない人でも、ころんでひざをうったときは、「いたい」と感じる。言葉をしゃべれない人でも、ひざをうつと、ひざが「いたくなる」のである。こういうことを考えた場合、やはり、「から」ではなく、「あと」だということがわかる。この場合は、「いたい」と感じたあと、「いたい」と言うことがあるということだ。「花を咲かせる」と言ったあと、花が咲く場合とはちがう。
まあ、言霊主義者だって、バックドロップをくらえば、「いたい」と言う前に、いたさを感じるのである。 いたさを感じたあと、「いたい」と言うのである。バックドロップをくったときのいたさは、「いたい」と言うかどうかとは、あんまり関係がない。言霊主義者だって、「いたい」と思わず言うときがあるかもしれないけど、「いたい」と言うから、「いたくなった」と考えるよゆうがないはずだ。「いたさ」がさき、「いたい」と言うのが、あと。いたさを感じてないときに、「いたい」と言って、突然、いたくなるということではない。いたさを感じたから「いたい」と言っている。