(注)2023/07/10 3:51に書いた文章
そもそもの話だけど、「言ったことが現実化する」「言霊はものすごいパワーをもっている」ということが事実であるなら、「いつか夢がかなう」系の言霊は、意味をなさないものになる。
どうしてかというと、「いつか」ではなく、「いますぐ」現実化させればいいからだ。
なぜ、またなければならないのか?
それは、言霊の力(ちから)がないということを知っているからだ。
言霊には現実をかえるようなすごい力(ちから)はない。
言霊主義者だって、そんなことは知っている。
だからこそ、妥協の産物として、「いつか夢がかなう」系の「弱い言霊」を考え出すのだ。これは、現実に負けた言霊的な妄想が、その人のなかで、生き残った結果だ。
超・物理的な力(ちから)をもっている言霊というのは、自然の摂理を捻じ曲げる力(ちから)をもっている。
超・物理的な力(ちから)と言うべきか、超・自然的な力(ちから)と言うべきか、まよったけど、両者はおなじことを言っている。ここでは、「超・物理的」と「超・自然的」というのは、おなじ意味をもっているとする。
自然の摂理を、「自分の言霊」の力(ちから)が、書き換えてしまうのである。
そういう強大な力(ちから)をもっているという(幼児的な)妄想があるのである。
そういう個人的な妄想が、言霊思考の根源にある。
人間は誰でも、そういう妄想をもっていたし、いまでも、部分的にもっている。大人になっても、自分がそういう力(ちから)をもっているのではないかという妄想が消えないのである。
自然の摂理にさからって、現実を書き換えてしまうような膨大な力(ちから)としての「強い言霊」と、「いつか、夢がかなうかもしれない」というような考えを維持するような「弱い言霊」が、おなじ「言霊」であるはずがないのだ。
強い言霊が、ほんとうに成り立っているなら、人は、強い言霊を使っている。そして、強い言霊の管理を気にしている存在になる。
ところが、だれも、そんなに強い言霊をもってないので、「現実化してしまったらどうしよう」というような心配だけに終わる。「三秒後にアタオカ上司が死ぬと言って、ほんとうに死んでしまったら、どうしよう」というような心配だけに終わる。
たいていの場合は、「三秒後にアタオカ上司が死ぬ」と言っても、アタオカ上司がぴんぴんしていて、いじめがとまらないということになる。そういうことがわかっているので「三秒後にアタオカ上司が死ぬ」というような言霊的な解決法は選択されず、もっと現実的な方法が選択されることになる。
自分のことならそうだ。
ところが、他人のことになると、そういう「しばり」がなくなってしまうのである。「強い言霊・優位の思考」が成り立ってしまうのである。もちろん、他人にアドバイスをしているときも、実際には、「強い言霊」なんて成り立ってないということは、無意識的には知っている。
もし、みんなが「強い言霊力(ちから)」をもっていたとする。
そういう世界はどういう世界だろうか?
一秒に一回、地球が爆発して、次の瞬間には、五〇〇個の地球があらわれるというような世界だ。
「みんなに言霊の力(ちから)がある」と思っているかもしれないけど、ほんとうは「自分だけ」言霊の力(ちから)があると思っているのだ。魔法使いのドラマのように、自分以外の人は、普通の人で、自分だけ、「チチンプイプ」と魔法が使えると思っているのだ。
まあ、ライバルとか、おなじような力(ちから)をもっている少数の人間はいるかもしれないけど……。みんなじゃない。
「強い言霊力(ちから)」というのは「物理法則をこえる力(ちから)」だ。
つまり、魔法の力(ちから)なのだ。
魔法使いのように、魔法が使えるという設定なのだ。
「強い言霊力(ちから)」について語るときは、そういう設定でものを言っているのだ。
しかし、現実的な問題に関しては、その「強い言霊力(ちから)」をぜんぜん使わない。「魔法は、使わない」という約束をした魔法使いのように、現実生活では、魔法の力(ちから)である「言霊力(ちから)」を使わない。
現実的な話になると、急に、しょぼい話になるのだ。
この人たちは、「言霊の力(ちから)」と「言葉の力(ちから)」を混同している。
たとえば、自己暗示というのが、言霊の力(ちから)として語られる。けど、この「自己暗示」の話に出てくる言霊は「一〇〇%のことを、一〇〇%の確率で実現化するような言霊力」ではない。
この「自己暗示」の話に出てくる言霊は「超・自然的な言霊力」ではない。ぜーんぜん、ちがう。
たんに、自分の意識に影響をあたえたいだけ……。
自分の意識に影響をあたえなければならないのは、そもそも、「超・自然的な言霊力」を使えないからなのだ。
使えないから、しょぼい解決法で、自分の潜在意識に影響をあたえて、自分が実際に「なす」ことによって、自分が現実化したいことを現実化するということになる。
「魔法のような言霊の力(ちから)」……「強い言霊」の力(ちから)を使うためのものではなくて、自分に言い聞かせるためのものなのだ。イメージトレーニングとおなじだ。
どうして、自分に言い聞かせなければならないのか?
何度も言うけど、自分が「超・自然的な言霊力」を使えないからだ。使えないから、自分に対して説得をするということをしなければならない。そして、説得をされた自分は、なんとか行動を起こして、現実的な解決法を模索するのである。
「魔法の力(ちから)」ではなくて、自分のからだを使って、物理法則にしたがった対象を動かすことによって、自分がやりたいことをやろうとしているだけだ。物理法則にしたがった対象というのは、ものである場合もあるし、他人である場合もある。
ものも、他人も物理法則にしたがっている。
他人のなかには、人間のからだの「しくみ」が宿っている。このしくみは、けっきょくのところ、物理法則にしたがっているのである。「自分」の場合も、人間のからだを使っているのであれば、物理法則にしたがった人間のからだを使っているということになる。
この場合、人間に効く毒は、「自分」にも効くということだ。
作用機序があるからね。
もちろん個体差はある。
けど、青酸カリを飲むと、青酸カリと、自分のからだを構成している物質が化学的な変化を起こして、死ぬ。その化学的な変化というのは、けっきょくは、物理的な運動のことだ。物理法則にしたがって、原子や分子が運動をした結果、死ぬのだ。
たとえば、「青酸カリを飲んでも死なない」と言って、青酸カリを飲んだ場合、「言霊の力(ちから)」がまさって、物理法則にしたがった原子や分子の運動が発生しないかというと、そうではないのである。
普通に、物理法則にしたがって、原子や分子の運動が発生する。
これは、言霊の力(ちから)が、物理法則の力(ちから)に負けたということだ。
ぜんぜん、言霊の力(ちから)が、影響を及ぼしてないのである。青酸カリを飲んでも死なない場合は、青酸カリの物理的な量や、ほかの物質の運動の結果、効かないのである。トッリクがあるなら、トリックの作用機序がある。そのトリックの作用機序は、物理法則にしたがった作用機序なのである。
「言ったから」と「言ったあと」の混同と、「強い言霊」と「弱い言霊」の混同がある。