自分の名前が「お墓」に刻まれているときのショックといったらないよ。
これ、もう、書いたから、省略するけど、ひどい。名前がほられて、その上に、赤い顔料?塗料?のようなものを、ぬる。
そして、その人……名前のぬし……が死んだときに、その赤い顔料?塗料?のようなものを、とる。たぶん、ちょっとだけ、けずるんだろうなぁ。それとも、とるための薬品でもあるのかな?
まぁ、そこらへんはわからないけど、自分の名前が、墓にほれられてしまったことには、かわりがない。ほったあとに、赤い顔料?か塗料?で、ぬるわけだから……。
「赤い字に、いのちを、すいとらるわぁーー」と思ったよ。ものすごく、いやなんだよ。赤が、気持ち悪い。赤い字が気持ち悪い。
カネを払うと、名前がきざまれてまうのだ。俺は、カネを払ったあと、名前を彫るためのスペースが確保されるだけだと思っていた。きちがい親父が、カネを払うと、名前がきざまれるということを、かくしていたのである。
こういう、肝心なことを言わない。
自分が「(墓のカネを)払ってやる」と思ったら、もう、払ってやることしか頭にないのである。きちがい親父の「やってやる、やってやる」というのは、かならず、一〇〇%の確率で、トラブルが発生するのである。「いやなこと」「憂鬱なこと」「不愉快なこと」「腹がたつこと」が発生するのである。
自分の気持ちしかない。
相手にやってやることでも、自分の気持ちしかない。
相手がどう感じるかは、相手が、説明しても理解しないのである。
一切合切、認識しないのである。
一〇〇回、相手が、説明したとしても、一切合切、理解しないのである。一〇〇回、相手が、ちゃんと、言っても、一切合切、理解しないのである。
「相手がいやがっている」ということが、ほんとうに、わからない。この「わからなさ」が、ほかの人にはわからない。こういう問題があるんだよ。きちがいの親をかかえると……きちがい的な親のもとに生まれるとこういう問題が、必然的に発生する。
けど、きちがい的な親のもとに生まれなかった人は、ほんとうに、これまた、わからないのだ。どういうふうに、「つたわらない」のかわからない。きちがい的な親のもとに生まれなかった人の世界では、「つたわる」からだ。ちゃんと言えば、ちゃんとつたわるのである。ところが、つたわらない。意見のちがいではないのだ。
これ、よくある、意見のちがいではない。
正常者同士でも、意見がちがうから、かみあわないということがある。意見がちがうので、「あらそい」がしょうじるということがある。
けど、そういうことではないのだ。
その全段階で「つたわらない」。正常な人との、意見のちがいとは、ちがうのだ。これが、親子関係で、正常な人同士の親子関係しか経験したことがない人にはわからない。正常な人と認知症である人とでは、理解のしかたがちがうのだけど、認知症である人と、きちがい親父をくらべると、まだ、認知症である人のほうが、理解しやすい。
どういうところで「わからない」のか、理解しやすい。
きちがい親父の「わからなさ」というのは、きちがい親父を「まじか」で見て、いろいろなトラブルを経験した俺ですら、わかりにくいところがある。……普通の人にはわからない。普通の人というのは、きちがい的な親のもとに生まれてない。
自分自身の体験をとおして……『きちがい的なわからなさ』を発揮するきちがい的な親がやることを理解してない。知らない。きちがい的な親とのあいだに生じるトラブルを理解してない。知らない。きちがい的な親との間にしょうじるトラブルというのは、普通の親との間にしょうじるトラブルとはちがう。根本的な、認知・認識レベルでのちがいがある。
けど、そんなちがい、普通の人にとってはまったく関係がないことなのである。
わからないし、関係がない。
どうたって、自分と親とのことを考えてしまう。その親というのは、普通の親だ。きちがい的な親ではないのである。だから「親」という単語で思い浮かべる出来事がちがうのである。「親」という単語で思い浮かべる、さまざまな事柄がちがうのである。「親」という単語で思い浮かべる人がちがうのである。「親との関係」という言葉で、思い浮かべる「親との関係」がちがうのである。そもそも、ちがう。