光において好条件であるタネ(植物)が、日光において悪条件であるタネ(植物)に対して、日光なんて関係がない「日光なんて、気にするな」と言っているようなものなんだよ。
差が、日光によってつくられているのに、好条件のやつが、悪条件のやつに、その条件を無視すればいいというようなことを言う。
その条件は、関係がないということを言う。
さらに、たまたま、日光があたるところに置かれたから、育っただけなのに、自分が、なにかうまく育つコツを知っているという感じで「日光があたるところを想像すればいい」「思い浮かべればいい」「日光があたったあたったと言えばいい」というようなことを言うわけよ。
育ったほうは、育ってないやつより育っている。だから、育って、背丈がのびて、葉っぱがたくさんついているという現実がある。
これは、カネのあるうちに生まれたやつが、金儲けについて語る場合とおなじだ。生まれの格差上だから、成功したやつが、成功するにはどうしたらいいかということについて語る場合とおなじだ。
実際に、成功してなければ、成功の秘訣みたいなものは語れない。けど、その秘訣というのが、最初の条件とは関係がないことなのだ。なので、ほんとうは、成功したということとは関係がない。めぐまれた条件のもとに生まれてきたということが、ほんとうは、関係がある。
けど、成功してないやつは、成功について語れないという問題がある。そりゃ、語ることはできるよ。けど、相手はどう思うか?
相手がどう思うかということを考えれば、それは、語れないということとおなじだ。
好条件の種が、育ったのは、光のおかげだ。悪条件の種が育たなかったのは、暗闇のせいだ。けど、事実育ったということが、めぐまれた条件のもとに置かれたタネが、「じゅうぶんに育つには(どうすればいいか)」ということについて語る資格をあたえる。
めぐまれない条件のもとにおかれたタネは、その資格自体がないのだ。どうしてかというと、現に、「じゅうぶんに」育ってないからだ。
そういうところがある。
で、まあ、暗闇というのは、光不足のことなんだけど、これは、ほんとうに、まっくらということを意味しているとする。日陰ではなくて、光がまったくあたらない条件であることを意味しているとする。
めぐまれた条件の種は、自分の成功(じゅうぶんなな背丈、おおくの葉っぱ)について、語る資格がある。けど、語る内容は、本来の原因をつくりだしたこととは無関係なことなのだ。
そして、事実!光があるとか、事実!光がないというようなことが、実際には影響をあたえるのに、事実!光がないほうは、「光がないから育たなかった」と言うことができない。
そりゃ、言えば言えるけど、悪魔が支配している社会なので、そういうことは、全部、あまえだということになっているのである。そういうことを言うこと自体があまえなのだ。そういうふうに見なされることになっている。
そういうこと言うということは、すなわち、負け惜しみを言っているということになる。
そういうことを言うということは、すなわち、愚痴を言っているということになる。
そういうことを言うというタネは、じゅうぶんな光の種に、嫉妬をしているということになってしまう。
自動的にそうなる。
こういう決めつけは、よく考えると「おかしな決めつけ」なのだけど、悪魔が支配している社会なので、みんな、そういうふうに考えるようになっている。
この紋切り型の思考こそが、おかしいのだけど、みんな、おかしいとは思ってない。それこそ、条件反射のようにそういうふうに考えてしまう。