庭に防草シートをはったから、ちょっとだけ、前進したぞ。まあ、全部じゃないんだけど、一部を残して、防草シートを、はることができた。これで、ひとまずは、竹の心配がなくなった。竹がはえてきても、いまの状態なら、竹が細いうちに切ることができる。
まあ、1メートルの高さで切るという方法がある。真冬……一二月から二月あたりに切らないといけないのだけど、一メートルの高さで竹を切ると、竹の根がくさるらしい。竹の根っこというのがすごいんだよ。まあ、切ってから、竹の種類によって三年ぐらいはまたなけばならないのだけど、これで、竹を枯らすことができるらしい。
まあ、ともかく、自転車を救出できた。竹のほかにも、木がはえていたのだけど、その木というのが、問題のある木で、細かい枝を横にのばす木なのだ。これに阻まれて、自転車を出すことができなくなった。
だいたい、親父が生きていたときからそうなのだけど、自転車を出すために、自転車が置いてあるところまで行くだけで、蚊に四カ所ぐらい刺されるのだ。自転車を出すだけで、そのくらいさされる。家に帰ってきて、自転車を置くにしても、おんなじように、蚊に刺される。
そのくらいに、蚊が多かった。
「木を増やさないでくれ」とこっちが言っても、木が増えてしまうのだ。「枝を切ってくれ」といっても、きちがい親父が、切りたくない枝は切らないわけ。で、きちがい親父が切らない枝というのは、普通の人の感覚で言えば、切らなければならない枝なわけ。こういうところでも、いちいち、くるっているんだよ。
いちいち、話が通じないの。普通の人が、「じゃまだ」と思うところに、木を植えて、普通の人が、「じゃまだ」と思う枝を無視しやがる。
くるっている人というのは、こういうところでも、くるっているんだよ。
そして、おそろいほどの頑固さを発揮するから、行動の修正ができない。
なので、きちがいがやりたいようにやって、ほかの家族が不愉快な思いをしたまま暮らすということになる。きちがい的な親は、普通だったら、言わなくてもわかることが、わからない。きちがい的な親がどういうふうにくるっているか、ほかの人はわからない。
きちがい的な親は、普通だったら、言えばわかることが、感覚として、わからない。ごく普通に相手のつごうを無視する。相手がこまっているということが、わからない。
この、自分の行為で相手がこまっているということがわからないというのは、きちがい兄貴もおなじだ。おやじと兄貴は、おなじタイプの脳みそを搭載して生きている。普通だったら、言わなくても、わかることが、わからない。
普通だったら、言えばわかることが、わからない。何万回言ってもわからない。どれだけ言ってもわからない。自分のなかのちょっとした「きもち」が優先する。その優先の度合いがひどいのだ。
じゃあ、自分が相手にやっていることを、相手がやったらどうかというと、それはわかるのだ。怒る。
けど、相手が「やめてくれ」と言ってきたら、怒る。きちがい兄貴にしたって、騒音というものは体験したことがあるので、騒音はいやなのだ。
だから、自分が聞きたくない音を聞かされれば、怒る。ヘビメタの半分ぐらいの音量どころか、ヘビメタの四分の一、八分の一ぐらいの音でも、怒る。「うるさい」と言って怒る。
そのときは、きちがい兄貴が騒音で不愉快な思いをして、こまっているわけだ。けど、自分が八倍の音で、ヘビメタを鳴らしているとき、だれかが「うるさいからやめてくれ」と言っても、相手が、自分の音で、うるさいと感じているということが、わからない。
根本からまったくわからない。
「文句を言われた」ということだけは、なんとなくわかるので、きちがい兄貴が腹をたててしまう。この反応は、きちがい親父とおなじだ。きちがい親父も、だれかが「枝がじゃまだから切ってくれ」と言ってきたら、怒る。
この反応。相手がこまっているということは、認めない。この認めないというのも、認識はしたけど、不愉快だから認めないというレベルのことではないのだ。もっと深いレベルで認めない。
ようするに、まったくわかってない。まったくわかってない。相手がこまっているということが、まったくわからない。まったくまったくわからない。自分だって(だれかに)やられたら、腹をたてるのに、自分が相手にやっていることは、わからない。自分が相手にやっている場合は、わからない。
で、この「わからなさ」というのが普通の人の「わからなさ」ではないのだ。これが、普通の人にはわからない。きちがい兄貴やきちがい親父の「わからなさ」について、普通の人は、誤解をする。
だから、きちがい兄貴やきちがい親父にやられた人は……うちのなかでやられている人は……ほかの人からも誤解をされる。「そんなのは、言えばいい」「言えばわかってくれる」とほかの人は、気楽に言う。
きちがい親父やきちがい兄貴の「わからなさ」について、ほかの人が理解をしてくれたことがない。
ほかの人にとっては「へんなはなし」なのだ。
そして、「へんなはなしだ」で終わってしまう。
自分は、きちがい家族と暮らしているわけではないので、そういう感想がうかんで、終了だ。けど、きちがい家族と暮らしている人は、毎日、必然的に、不愉快な思いをすることになるのである。
これも、わかってないんだよな。
きちがい的な家族ときちがいではない家族は、ちがうんだよ。けど、普通の人はここのところがわかってないので、「自己責任」とか「自立」とか「他責思考」とかといったタームで、くくってくる。これだって、きちがい家族にやられた人にとっては、不愉快なことだ。だってちがうことを言っているんだからな。あーー、もう、いやだ。