これに関して、まったくうけないことは知っているけど、書いておく。働くのが苦手な人は働かないほうがいい。もっと正確にいうと、働けない人は働かないほうがいい。ほかの人から見て、働ける人でも、働けない人がいる。
ほかの人から見て、働けるかどうかと、本人が、この世界で働けるかどうかはちがうのだ。
ぼくが見ていると、世間というのは、働けない人に、働くことをおしつけている。世間というのは、言ってみれば、他人だ。
「そと」から見た話なのだ。
「そと」から見て、働ける人であれば、働ける人だということになる。働けるのにはたらかないのはけしからん」ということになる。
佐藤(仮名)のような凡人だと、どうしても、そういう発想になる。ある人……たとえば、佐藤(仮名)が、エイリさんは働けると思ったら、佐藤のなかで、エイリさんは、働けるのに働かない人だということになる。
しかし、ヘビメタ騒音で、ぼくは、この世界で働けない人になっていた。このちがいがある。もっとも、ぼくの場合、インターネットがない世界では働けないということだから、時代が影響をあたえる。
ヘビメタ騒音「で」の「で」は非常に重要だ。こいつらは、ヘビメタ騒音は、働けなくなるような重い問題ではないと認識しているのだ。俺の話を聞いたあとでも……。
俺は過不足なく、制限時間内で、ちゃんと説明したからな。
だいたい、自己紹介のときに、限られた時間のなかで、ヘビメタ騒音のことを、全部説明するのはむりだ。だから、ちゃんと重要なところを説明している。……「自己紹介」というのがこれまた、やっかいなんだよな。自己紹介の問題は、どこかで書いた。すでに書いたから、省略する。
ほんとうは「働けない人」なのに、「そと」から見ると、「働ける人」に見える人がいる。あくまでも、「そと」から見た場合だ。「そと」から見て、働けるのに働けない人……と、「そと」から見て働けるのに、働かない人がいるのだ。
「働けないから働かない人」と、「働けるのに働かない人」のちがいはおおきい。
けど、このちがいが無視されることがある。
そして、「そとから見た」場合の認知と、本人の認識がちがう場合がある。
とりあえず、本人の認識と事実が一致するとする。「働けない」人に「働け」といってもむだだ。働けないからだ。世間側がどれだけ、「説教」してもむだだ。これ、あほなんじゃないかと思う。
世間側がやることが「説教」なのだ。
働けない人に「働くように」説教をする。あほとしか言いようがない。働けないから働けない。働けない人に「働いたほうがいい」と説教するのは、なんとばかげたことか?
しかし、このばかげたことが、まかり通っていのである。世間側の人から見ると、「その人」は働ける人なのだ。働けるのに、働かない人なのだ。
事実として、働けないから働いていない人にむかって、「働くように」説教してもむだだ。
繰り返しになるけど、働けないから働いていないだけだ。働けるのに、働いていないわけではないのだ。ここのところを世間側が「そと」から見て、勘違いしている場合がある。
事実として、「働けるのに、働いてない人」と、事実として「働けないから、働いてない人」のちがいはでかい。事実として働けるのか、事実として働けないのか、世間が判断しているのである。
そして、世間の判断がまちがっている場合は、まちがった判断をされたほうに、負担がかかるのである。まちがった判断をした世間側の人には負担がかからない。
ようするに、ほんとうは働けないのに、働けると判断されてしまう人たちがいるのである。
その人たちに投げかけられる言葉が「あまえ」だ。
世間側の人から見ると、その人が……働けないから働けない人が……「あまえている」ように見えるのだ。
そして、ここに、言霊思考や引き寄せ思考や自己責任思考が影響をあたえる。
そして、ここに、魔法的な解決法が影響をあたえる。
魔法的な解決法というのは、言っているほうは、すばらしく効果的な解決法だと思っているけど、実際には、解決法ですらないものなんだよ。まったく、役に立たないアイディアだ。そして、役に立たないだけではなくて、有害なアイディアだ。
だから、まず、世間側の事実誤認があり、そして、世間側から提示される魔法的な解決法が問題を大きくする。