軽い知的障碍者がいたとしよう。軽いので、障碍者枠から外れたとしよう。あるいは、障碍者として働こうとしたけど、障碍者として働くことができなかったとしよう。
ようするに、制度はあるけど、制度がすべての問題を解決してしまうわけではないので、制度としての保護が手薄になる「層」というのがある。ある軽い知的障碍者をAさんだとする。Aさんがある仕事をしたとする。
けど、その職場では、Aさんは、罵倒され、なぐられ、仕事ができなかったのである。で、Aさんを罵倒し、なぐったほうは、もちろん、悪いのだけど、そもそもの問題は、そこではないのだ。
仕事場に、働けない人がいたということが問題なのだ。
仕事場に「働けるように見える」けど、じつは「働けない」人がいる。こういうことが、問題なのだ。仕事場に、仕事をするために、そこにいる!!!にもかかわらず、じつは仕事ができない……。
これは、問題だ。
まわりのひとは、Aさんに、これこれの仕事をするように命令するけど、Aさんはこれこれの仕事がどうしてもできない。できないのだから、できない。「できる」とひとこと言えば、できるようになるか? できないままだ。Aさんが、あまえているから、できないのか?
ちがう。
できないからできない。
Aさんが、仕事場に……仕事をするための場所に……仕事をするためにいる……。それなのに、Aさんには、仕事ができない。これが問題なのだ。いくら、Aさんが仕事ができない人だとしても、まわりの人には、「仕事をするために、Aさんが仕事場にいる」という認知・認識がしょうじる。
しかし、Aさんは(その)仕事ができない。なので、認知・認識上の問題がしょうじる。「根性で仕事をすれば、仕事ができるようになる」……「いや、できないものできない」。「コツコツと努力すれば、仕事ができるようになる」……「いや、できないものはできない」。
Aさんが「あまえないようにすれば」仕事ができるようになるか?
いや、できないものはできないんだよ。あまえの問題じゃないのである。
人間にとって仕事がいかに大切なものか、Aさんに説教をすれば、Aさんは働けるようになるか?
働けないままだ。Aさんは、日本社会において、さまざまな職場で、仕事ができない。
できないものは、できないんだよ。こころがけの問題ではないのである。Aさんのこころがけの問題ではない。けど、「説教」という方法は、こころがけの問題にしか、対処できない。Aさんが仕事をすることができないのは、Aさんの機能障害の問題であって、こころがけの問題ではない。
何度も言うけど、「できないものは、できない」。
Aさんの認識は「自分は仕事はできない」というものだっとするそれは、さまざまな仕事場での経験から導き出された、認識だ。
しかし、世間の側が「人間は仕事をするべきだ」という考えをもっていたとする。
そして、Aさんに、仕事をするように、けしかけたとする。いっぱい、説教をしたとする。Aさんが、それで、働けるようになるか? 仕事ができるようになるか?
もともと、できないものはできない。脳の機能障害で……できないものはできない。ほんとうは、世間側は、それを認識しなければならないのである。
しかし、根性論、努力論、自己責任論、魔法的解決法でごまかしてしまう。
* * *
ぼくの場合は、睡眠回路に問題がしょうじた。これは、脳の機能障害だ。脳の機能障害が生じた理由は、ヘビメタ騒音の繰り返しだ。毎日、爆音で、自分が聞きたくない音を、聞かされ続けるということが、脳の機能障害をうみだした。
じつは、ヘビメタ騒音・プラス・「毎日、時間通りに学校に行かなければならない状態」が、何年間も続いたことが、脳の機能障害をうみだしたのだ。こわされたのは、睡眠回路(睡眠にかかわる脳の機能障害)だけではない。
楽しく感じることができないというような感情にかかわる脳の機能障害に関しても、毎日爆音にさらされていることだけではなくて、毎日爆音にさらされているにもかかわらず、一定の時間に起きて行動しなければならない状態が影響をあたえている。
で、これは、薬では治らない。