じゃあ、どうして、言霊や引き寄せがうけるのか? 魔法的解決法が、あたかも可能であるかのように言われるのか? まず、人間は、魔法的解決法が可能だというような感覚を、幼児的万能感のなかで経験しているのである。魔法的解決法が有効なはずだと感じているのである。これは、幼児のみならず、大人もそうだ。どこかで、魔法的解決法が可能だと感じるような部分があるのである。魔法的解決法は、儀式的解決法だと言える。そして、その儀式が、ものすごく楽なのである。言えば、その願望はかなう……言霊。夢を書けばいい。書けば夢がかなう……夢ノート。引き寄せるように、引き寄せをイメージすればいい……引き寄せ。思っただけで、夢が現実化する……思霊(思霊はぼくの造語で、言霊の思いバージョン)。
ともかく、楽なのである。けど、条件が悪いと、現実化しない。条件が重要だ。条件がよければ、こういう呪術的な方法にたよらなくも、「夢」は現実化する。「願望」がかなう。条件が重要なのに、条件を無視してしまっている。人間ならだれでもできるということになっている。実際、呪術的な行為をおこなうことは、特別な条件が成り立たなければ、たいていの人はできる。特別な条件というのは、たとえば、言霊の場合は、しゃべれるということだ。言葉を発することができない人の場合は、言霊的な解決法を利用できない。それだって、身体的な条件だ。けど、言霊主義者はそういう条件を無視している。そして、「人間ならだれだってできる」と言う。「条件なんて関係がない」と言う。しゃべれるかどうかというのは、条件のひとつだ。ほんとうは、無数の条件が成り立っている。条件を条件としてとりあげたとき、それが、条件として立ち現れるというような部分がある。条件を条件として取り上げなければ、条件としては、無視できる。
条件のなかで、生まれの格差は、現在の格差につながるので、非常に重要な格差だ。生まれの格差は呪術的な方法に関係なく、成功するかどうか、楽しいと感じる回路を維持できるかどうかに、非常に重要な影響をあたえる。もしかりに、呪術的な方法をしなくても、成功する人は成功する。そういう条件が成り立っている。成功しない人は、呪術的な方法をしなくても、成功しない。そういう条件が成り立っている。じつは、呪術的な方法をこころみたかどうかというのは、結果には、そんなに影響をあたえない。そういうのは、影響をあたえたとしても、全体の影響のなかで一%ぐらいの影響しか与えない。すくなくても、ほかの条件をくつがえすような力がない。はめこまれているので、そうなる。生まれの格差が与える影響は九〇%ぐらいだ。しかし、「生まれの格差」と言った場合、なにを生まれの格差としてとらえるかということが問題になる。そして、たとえば、親の性格という項目を取り上げたにしろ、「性格」ってなんですか? という問題が立ちはだかる。親の性格という項目を取り上げたにしろ、数値には還元ができないさまざまな「性格」と言うべきものがある。なにをして「性格」として取り上げるのかという問題がある。「やさしい」か「きびしい」か、そんな言葉に還元できるほど、人の性格というのは「やわ」じゃない。まず、性格という項目が問題だし、正確にかかわることを言語化してとりあげたにしろ、それは、言語化してない部分を置き去りにして話をすすめているということになる。
しかし、ここでは、その問題に立ち入らずに、言いたいことだけを言おう。魔法的解決法の呪術的な行為は、それが成功するかどうかに、ほとんどまったく影響をあたえない。けど、じゃあ、どうして、人が、呪術的な行為にはしるのか? それは、じつは、「気分」を維持したいからなのである。現実は関係がないのである。アルコールみたいなものだ。そのとき、「できるような気分」を味わえれば、それでよいのだ。そういう使われ方をしている。